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松坂大輔と森本稀哲――1998年11月、僕は「焼肉 絵理花」の細い階段を上がった

文春野球コラム2020 90年代のプロ野球を語ろう

 マイ石鹸をリュックのなかでカタカタいわせながら西武電車に乗った。山手線を降り、西武池袋駅でも手洗いだ。平日の昼間、体感としては西武第二でイースタン戦のイメージだが、今は新型コロナ禍でスポーツが停止した2020年3月下旬だ。いや、スポーツだけではない。世界が停止してしまった。目に見えないウイルス感染症は地球規模の災厄となっている。ハリウッドのSFパニック映画のようだ。

 が、春の陽ふり注ぐ西武線の車内はポカポカ暖かく、SFパニック映画のようではなかった。座席はガラガラでソーシャルディスタンスが自然に取れる。会期終わり間際の『ライオンズ70周年記念・駅装飾』(所沢駅コンコース等)、『歴代ライオンズ5球団の軌跡展』(西武所沢S.C.7階特設会場)を見に行くのだ。本当なら3月20日、プロ野球開幕戦(L-F戦)のタイミングで見るはずだった企画展だ。

 おお、そうだ。ライオンズ70周年おめでとう! プロ野球の見られない春、ライバルチームにこれを言わねばならないなんて何たる巡り合わせだろう。僕は中学の頃、西鉄の終わりから太平洋クラブの時期を福岡県久留米市で過ごした。RKB毎日やKBC九州朝日放送のラジオ中継に聴き入った。カネやんロッテとの「遺恨試合」で平和台球場が荒れた頃だ。つまり、初代「山賊打線」の時代だ。九州時代も、その後の埼玉所沢時代も一貫して敵方にまわったけれど、長いつきあいなのだ。展示されていたオールドユニホームがジーンと来るほど懐かしい。

所沢西武S.C.外観。ライオンズ70周年の祝祭ムード、松坂復帰、本当なら最高の開幕シリーズだった……。 ©えのきどいちろう

「黄金の80年代」を謳歌したのは西武ライオンズだった

 黒い霧事件に揺れた69年からの日々、「永久追放」「球団身売り」の衝撃。新球団「太平洋クラブ」の誕生、大物助っ人ハワードの来日&帰国。優良外国人ビュフォードの活躍。加藤初、東尾の台頭。再び身売り、新々球団「クラウンライター」の誕生。江川卓の入団拒否……。九州時代のライオンズの展示を見ているだけで思い出が走馬灯のようによみがえる。追憶の70年代プロ野球。

展示より。太平洋グラブライオンズの若手右腕、加藤初&東尾修。 ©えのきどいちろう

 西武所沢S.C.の展示物には「82年プレーオフのウイニングボール」もあった。ファイターズは前年、優勝請負人・江夏豊の加入でパ・リーグを制し、20代のワカゾーだった僕の目論見では「黄金の80年代」に突入するはずだった。高代、島田、菅野、古屋といった大沢親分お気に入りの選手がチーム力を底上げしていた。投手陣には木田勇がいる。グンと伸びた工藤幹夫がいる。目指すは連覇だった。前期優勝・西武vs後期優勝のファイターズ。大沢親分に秘策があった。9月に右手小指を骨折し、戦列を離れていた工藤幹夫をプレーオフ第1戦の先発に起用したのだ。前日まで白い包帯で右腕を吊ってカモフラージュした。奇襲だ。

 それが(好投したけれど)勝ちに結びつかなかった。抑えの切り札・江夏はバント攻めに苦しみ、ついに西鉄身売りから数えて新々々球団となった西武ライオンズがパ・リーグ覇者となり、日本一にも輝いた。「82年プレーオフのウイニングボール」は僕らにとってその屈辱の記憶だ。展示ケースをぶち破ってガリガリ噛んで歯形をつけたい(ぶち破りませんし、歯形つけません)。このプレーオフで運命が反転したのだ。世間はどう思ってるか知らないが、僕はそう思う。「黄金の80年代」を謳歌したのはファイターズではなく、西武ライオンズだった。

82年パ・リーグプレーオフのウイニングボール。ファイターズ屈辱の記憶。歯形はつけません。 ©えのきどいちろう

 悔しいけれどそれ以降、西武に歯が立たなかった(歯形つけません)。剛腕・根本陸夫の引きで名選手が続々入団してくる。松沼兄弟、石毛、秋山、伊東、工藤、渡辺久、辻、清原……。外国人選手もデストラーデ、郭泰源……。僕は西武球場へ行くのが嫌だった。河野や西崎が打たれて悄然と帰りの西武線に乗るのだ。ファイターズはいつも引き立て役だった。池袋までが泣きたいほど遠い。車内は勝った西武ファンがウヒョウヒョ状態。もう地獄の準急列車だ。