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3日で余命が半分に

これまた運がよかったことに、唐津の病院で評判のいい腫瘍内科の女医さんが担当して下さることになった。梅口仁美先生。「梅ちゃん先生」というんです。皆がそう呼ぶのでね。

 自覚症状が全くなかったので、撮影初日から2日間、徹夜で撮りました。余命宣告から3日後に再検査があり、梅ちゃん先生に「こんなに元気だから大丈夫じゃないですか」と軽口を叩いた。ところが「監督、今日の結果は余命3カ月です」と返ってきました。たった3日で余命が半分になっちゃったんです。

 それを聞いた娘の千茱萸(ちぐみ)が、梅ちゃん先生に、映画の完成まで1年から1年半はかかるから、1年半は僕を生かしてほしいと懇願しました。

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©文藝春秋

 すると、東京の帝京大学病院の名医を紹介してくれたうえ、採取した僕のがん細胞をそちらの病院に送ってくれることになったんです。僕も東京で入院するつもりで、現場は助監督さんに一旦任せると、荷物をまとめて帰京しました。この帝京の先生は偶然にも、僕の名前と読みが同じ「ノブヒコ先生」とおっしゃる。

 恭子さんはノブヒコ先生と顔を合わせると、「先生、この人は入院するより撮影の現場に戻った方が元気だと思いますから、私はこのまま連れて帰ろうと思います」と切り出しました。僕は家族から、映画を後回しにして治療に専念してほしいと言われたことは一度もありません。それは僕に死ねと言うのと同じようなものと皆わかっていますから。

 ただ、僕は僕で一応患者ですから、「ノブヒコ先生が同じ名前のよしみで、親戚のおじさんに対するように『宣彦おじさん、現場に戻って下さい』とお尻を押して下さったら戻れます」と先生にお願いしてみました。すると先生は、3秒ほど僕の顔をまじまじと見つめてから、「わかりました。宣彦おじさん、現場へお帰り下さい」と答えてくれました。