イレッサでがんが消えた
翌日、さっそく唐津に戻るために新幹線の新横浜駅へタクシーで向かっていたら、恭子さんが「わあ、きれい」と子どもみたいな声を上げました。窓の外を見たら虹の足元が3本出ていた。これは必ず良いことがある。そう確信したんです。
タクシーが娘夫婦との待ち合わせ場所に着くと、2人とも嬉しそうな顔をしていて。「親父殿ががんで闘病中なのに何がそんなに嬉しいんだ」と呆れたら、娘が「パパ、イレッサが飲めるのよ!」と伝えてくれました。病院から連絡を受けたばかりだったそうです。
イレッサ(一般名・ゲフィチニブ)は肺がん治療薬で、薬害とかもありましたよね。特定の遺伝子変異のある人には劇的に効きますが、その割合は低い。黄色人種で非喫煙者の若い女性に効きやすいと聞いていたので、男で年をとって長らく喫煙者だった僕は、最初から“はみ出し者”だと思っていました。
ところが梅ちゃん先生が送っておいてくれた僕のがん細胞を使って、ノブヒコ先生がすぐに調べてくれたところ、効果が望めることがわかったというのです。
そこから唐津に戻り、夕食後にイレッサの錠剤を1錠飲む生活が始まりました。唐津湾や撮影現場をシネマスコープで一望できる最上階の病室に泊まり、朝の検査が終わる9時頃に現場へ出ていく。で、夕方には病室へ帰るという約束が、ついつい夢中になって夜中になり、深夜になる。薬は持って出ればどこでも飲めますからね。恭子さんの携帯電話には病院からの安否確認の着信がたくさんあったそうです。立派な台所もついていて、スタッフが来て病室を厨房のようにしてしまったこともあって、あれは楽しかったな。
唐津に戻って5日目くらいでしょうか、梅ちゃん先生がスキップするように病室へいらして、「大林さん、とても効きました。見て下さい」と声を弾ませて2枚のレントゲン写真を示してくれました。
見比べると、片方には腫瘍がありましたが、もう片方の写真にはない。がんが消えたかのようでした。おかげでおよそ50日の撮影は無事終了しました。
イレッサは煙草を吸わない人に効きやすいということでしたが、チェーンスモーカーだった僕になぜ劇的に効いたんだろうと不思議に感じ、先生に尋ねたことがあります。「監督は煙草を咥(くわ)えていただけで、おそらく吸い込んでいなかったのでしょう」と指摘され、なるほどと思ったものです。大人になれば喫煙するという時代でしたから煙を吹かしてはいたけれど、のどから吸い込んだことはあまりありませんでしたから。
翌17年の春、『花筐』の編集をしていた時期に、また腫瘍マーカーの数値が上がり出しました。脳転移の可能性があるということで、放射線治療を受けたんですね。
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大林宣彦監督のインタビュー「余命3カ月宣告から3年生きた」の全文は、「文藝春秋 電子版」に掲載中です。大林監督のご冥福をお祈り致します。
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余命3カ月宣告から3年生きた
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2019年10月号
2019年9月10日 発売
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