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コロナ禍で浮かび上がる感染研、永寿病院と「七三一部隊」の数奇な縁

戦後も「元七三一部隊員」のネットワークが形成されていた

2020/04/17
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防御や対応策を検討する研究材料に

 視点を変えて、今回の事態を細菌戦やバイオテロ攻撃を受けたと考えれば、これほど防御や対応策を検討する実践的な研究材料を与えてくれる機会はないのではないか。間違いなく、日本の自衛隊も含め、各国の軍隊はかたずをのんで見守り、「こういう場合はどうするか」などと真剣に検討し、シミュレーションを重ねているに違いない。その際の基本的な考え方は「多数を守るためには少数を切り捨てる」「情緒的でなく合理的な判断」「重要な情報は秘匿し、意図に沿った情報だけ公開する」などだろう。

「人道的」などという視点は取るに足りない。軍隊とは本質的にそういうものだろう。クルーズ船の対応にもそうした「軍の論理」が感じられる。船内でどれだけ感染が広がっても、乗客を上陸させなければ陸上には広がらない。クルーズ船を見捨てるわけで、非情な仕打ちだが、それが「軍の論理」だろう。

横浜港に停泊するダイヤモンドプリンセス号 ©︎AFLO

 検討やシミュレーションの目的は、自軍が細菌攻撃やバイオテロを計画、実行することとは別で、建前はあくまで防衛的な意味だ。七三一部隊も、正式名称は「関東軍防疫給水部」。伝染病などから兵士を守り、安全な飲料水を確保することなどが本来の任務であり、そこから細菌戦研究と人体実験、実戦での使用に走ったとされる。

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感染研敷地から100体以上の身元不明の人骨

 いずれにしろ、感染研、永寿総合病院と、今回の「事件」に登場した機関が七三一部隊と点と線で結ばれているのは不気味だ。それは結局、七三一の行為をきちんと調査・検証しないまま過ごしてきた戦後日本の問題ということだろう。

 ちなみに、感染研は前身の予研時代、危険な病原体を扱うため、東京・品川区から新宿区に移転する際、地元住民の強い反対に遭い、訴訟まで起こされた経緯がある。結果は勝訴して現在地に建設されたが、そこは実は七三一部隊の母体となった陸軍軍医学校の跡地という因縁の場所。さらに工事中の1989年、敷地から100体以上とされる身元不明の人骨が発見された。人体実験をされた人の遺骨ではないかとも騒がれたが、結局うやむやに終わっている。

 一連のコロナ禍の裏には、75年前に消えた細菌戦部隊の“幻影”がひそんでいるように見える。

【参考文献】
▽常石敬一「七三一部隊」(講談社現代新書)、1995年
▽吉永春子「七三一」(筑摩書房)、2001年 
▽日韓関係を記録する会編「資料 細菌戦」(晩聲社)、1979年

コロナ禍で浮かび上がる感染研、永寿病院と「七三一部隊」の数奇な縁

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