漫画家にとってありがたい原作
原作を読んでびっくりしたのは、とにかく客観的に書かれていることです。だから、コミカライズに際してもエピソードの取捨選択をするぐらいで、ほとんど原作の流れそのままです。主人公が自宅療養しているときも、寄席に落語を聞きに行ったり、高尾山へ登山に行ったり、河原で詰将棋をしたりと、次々と絵になるシーンが登場するので、漫画家としては楽でした。
ずっと将棋のシーンが続くなぁ、と思ったら、急にハンモックを買ってベランダで寝てくれたりして(笑)、絵にする側としてはありがたい限りです。悩んだのは、どこを大ゴマにしようとかくらいで、とてもコミカライズしやすかった。苦労したのは、背景をひとりで描くのが大変だったくらいですね。
あえてカットした印象的なシーン
小説家の長嶋有さんの作品を、いろいろな漫画家が競作した『長嶋有漫画化計画』に参加したことがあるんです。その時、島田虎之介さんが、芥川賞受賞作『猛スピードで母は』をコミカライズしたんですが、原作で僕がいちばん印象的だったエピソードが省かれていた。なんでだろ、と思いつつ、自分の番がきたので『タンノイのエジンバラ』という短篇をマンガ化したんです。
自分がやって初めて分かりましたが、ささいなエピソードでも、そのひとつひとつがつながっているので、「これ入れると、これとこれも入れなきゃならなくなる」ってことが往々にしてあるんですね。20ページという長さが決まっていると、切れるところって決まってきちゃう。逆に印象的なエピソードでも、独立してて切りやすかったりして。そういうところが、コミカライズの難しさであり面白さでもありますね。
『うつ病九段』でも、「なんでこのエピソードを入れないの」と言われたことがあります。ラスト近くで、将棋連盟の新年会で羽生善治さんと久しぶりに会って「体調はどうなの?」と聞かれるシーンがあります。原作ではその後、後輩棋士や女流棋士たちと歓談しているときにカメラマンから邪魔者扱いされた先崎さんが、帰宅後に荒れるという印象的なシーンがあります。そこはカットしました。
連盟に顔を出せるくらいに回復した先崎さんが、若い頃からのライバルである羽生と再会するところが、このマンガのクライマックスになると僕は思っていたんです。ですから、その後のシーンを入れると、エンディングにならない気がした。そういう作業を、ある程度、ほどこさせていただきました。
でも、実際にマンガにして、原作の完成度にあらためて驚きました。うつ病の闘病記って、何人もの作家が本にしていますが、わりと平坦な印象のものが多い。ところが、『うつ病九段』には独自のエンタメ力があるんです。だから、マンガを読んだ人は、ぜひ原作も手にとってほしい。一個の文学作品として、凄く読みごたえのある本だと思います。
◆◆◆
河井克夫(かわい・かつお)
1969年生まれ。95年、「ガロ」でデビュー。不条理ナンセンス・ギャグから文学作品のコミカライズまで、幅広い作風を誇る。著書に『ブレーメン』、『女の生きかたシリーズ』、『日本の実話』、『クリスチーナZ』、『出会いK』、『ニャ夢ウェイ1〜4』(松尾スズキとの共著)、『久生十蘭漫画集 予言・姦』など。俳優としても数多くのドラマや舞台に出演。