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 実際、JR西日本に残っている記録によると、1937年頃の糸崎機関区にはC59蒸気機関車とD51蒸気機関車があわせて63両も所属しており、1000名もの職員が働いていたという。さらに乗務員も含めればもっとその数は膨れ上がり、職員の家族とあわせればざっと1万人ほどの鉄道関係者が暮らしていた“鉄道の町”。それが糸崎黄金時代の姿だったのである。

かつて糸崎にあった蒸気機関車の転車台 ©JR西日本
こちらは給水塔。ここから機関車の水タンクに水を補給する ©JR西日本

「SL時代の跡を調べてみたんですけど……う~ん、わからない(笑)」

 さらに、駅のすぐ南側には倉庫街があり、その先は瀬戸内海。四国との物流の拠点だった歴史もあるといい、糸崎の市街地には遊郭の跡も残っていたとか。駅の西側にある三菱重工の工場は1943年に蒸気機関車の製造を目的にできたもの。こうしたエピソードを聞けば、往年の糸崎の賑わい、なんとなく想像できそうなものだ。

糸崎駅に所属していた蒸気機関車。63両が所属していた時期もあったという ©JR西日本
こちらは現在の糸崎駅すぐ南側にある倉庫街

「ただ、転車台とか機関区時代の設備はほとんどなくなってしまっていましてね。取材に来るからということで、古い写真を見てどこかに跡がわかるようなところがないかと調べてみたんですけど……う~ん、わからない(笑)」

 懸田区長もそういう通り、確かにうろうろ歩き回っても、糸崎機関区が黄金期を謳歌していた頃の残滓はほとんどみつからない。使われていないボロボロの信号機などもあったが、これとてSL時代のものではないだろう。

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今は使われていない信号機。さすがにSL時代のものではないだろう

“1分でわかる”糸崎駅の歴史

 ここで改めて糸崎駅の歴史を振り返る。糸崎駅が開業したのは1892年。当時は山陽鉄道という私鉄の駅で、約2年の間は「三原駅」を名乗って正真正銘の終点だった。三原の市街地は今の三原駅のあたりにあるのに、それより手前で鉄路建設が一旦ストップしていたのだ。その理由はきっと次のとおりだ。三原から先、広島方面に向かっては山越えを控える。山越えは鉄道の大敵で、機関車を付け替えたり水や石炭を補給したりする必要があり、その手前には機関区が欠かせない。とは言え、三原市街地にそれを設けるスペースはないから、糸崎にいったんターミナルを設けて機関区を併設したのだ。