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盆踊りの哲学――政治学者・栗原康インタビュー#2

「長渕さんが一遍に近いなって思うのは、毎回、マジで死ぬ気だというところ」

死してなお叫べ!

―― 成仏してしまっている。奇跡ですね。

栗原 そこには、踊り念仏と通じるものがある気がします。僕はなんとか耐えきって、「よーし、終わったぁ」と思って帰ろうとしたら、桜島はフェリーでしか帰れないので、フェリー乗り場にすごい行列ができていたんですよ。フェリーを待ちながら、さらにひとがバタバタと倒れていって。僕は友達と2人で参加したのですが、友達が一言、「こっ、これが難民状態か」って言って。その声を聞きながら、僕も倒れて気絶してしまいました。気がついたら岩場でおばちゃんに頭を氷で冷やされていた。

オールナイトコンサートの会場となった桜島 ©iStock.com

―― 栗原さんも倒れたんですか……。

栗原 岩場で起き上がったときは、蘇った感覚がありました。ものすっごく解放感に満ちていたんですよね。一度死んで、全く別の「生」が生まれた、みたいな。ナムアミダブツ、これがあの世から帰ってくるということなのかと。一遍の成仏のイメージって、それまで人間がとらわれてきた現世の価値観っていうんでしょうか、大人になれ、カネを稼げ、そのためには「あれしちゃいけない、これしちゃいけない」っていうのから解き放たれて、スッカラカンになっていくっていうのがあるんです。ゼロになって、あたらしい生をいきなおす。再生です。長渕さんのライブにも、おなじようなものを感じるんですよね。死してなお叫べ、みたいな。

―― 長渕体験ってすごいんですね。

栗原 そうですね。完全に、生ける上人ですね。もちろん、長渕さんは「本当に死んじゃダメなんだ」って何度も言っていますけどね。

音楽や表現は、そもそも政治的行為なんだ

©榎本麻美/文藝春秋

―― 昨年はフジロックに、安保法制反対の学生団体「SEALDs」の出演が決まったことで「音楽に政治を持ち込むな」論争がありました。栗原さんはどんな風にご覧になっていましたか?

栗原 上から、政治で「音楽はこうあるべきだ」としばるのは絶対だめだと思うんですね。昔でいうプロレタリア芸術みたいな。愚かな大衆を教化するためだとか、動員するためだとかいって、そのための道具として音楽をつかったら、そんなのもう芸術でもなんでもないですよね。だからそういうことじゃなくて、そもそも芸術それ自体が、音楽やその表現自体が、政治的な行為なんだっていうことだと思います。

 踊り念仏や長渕さんの歌もそうですよね。ふだん仕事でもプライベートでも、自分を有用にみせるために、他人によくみられるために、「あれしちゃだめ、これしちゃだめ」と決められていたことを、ぶっ壊す原動力になるわけですから。だから政治と音楽を分化すること自体おかしいし、逆に政治が必要だというひとの中に、表現がないことは問題だとも思う。デモだって本来は表現ですからね。

―― 「こうあるべき論」として文化は語るべきではないと。

栗原 それじゃ、ひとを軍隊みたいに組織化するだけですからね。ラッパを鳴らして、ドラムをたたいて、規則正しく行進しましょうみたいな。音楽を道具的につかうのはおかしいと思う。民衆ひとりひとりが持っている表現の力をどうやって爆発させていくのか。それを考えるのが、ほんとうの意味で政治的なことなんじゃないでしょうか。