「ということは、堀越がナメていたという……」
「あの~、ものすごく私事なんですが、実は僕、岩隈投手と同じ西東京で高校野球をやってまして。最後の夏は、岩隈さんの堀越に負けたんですよ」
すると、今まで平静を保ち続けてきた岩隈は目を大きく見開き、口を半開きにしてこちらを見つめてきた。私は急に恥ずかしさに襲われ、おどけるように「でも、岩隈さんは投げなかったんですけどね」と続けた。
岩隈は驚いたような表情のまま「じゃあ、同学年?」と聞いてきた。私がうなずくと、岩隈は「じゃあ中学はシニアか何かでやってきたの?」「高校はどこ?」と畳みかけるように質問を浴びせてきた。先ほどまでの丁寧な口調とはうって変わって、「タメ口」になっていた。
私が母校の名前を告げると、岩隈は「はいはい……」とうなずいてから少し考え込み、こう尋ねてきた。
「球場は……立川?」
たしかに堀越との試合会場は市営立川球場だった。地面からの照り返しのきつい、暑い日だった。当然、自分の高校野球最後の舞台は記憶しているものの、まさか岩隈が覚えているとは思ってもみず、私は狼狽した。
「その日は僕が投げなくて、Y(当時の堀越の2番手投手)が一日投げた試合だ」
おぼろげだった岩隈の記憶にみるみるうちに色彩が戻っていくこと
「ということは、堀越がナメていたという……」
一座に笑いが広がった。書き起こしてみると「それを本人の前で言うか」という内容だが、私からすると遠慮なく笑いに変えてくれたことがうれしかった。調子に乗った私は、岩隈に打ち明けた。
「でも僕ら、岩隈さんを打つために、
今度は岩隈が手を叩いて笑う番だった。「そうかぁ。そうしたら、僕が投げなかった」と言う岩隈に、私は畳みかけるように「そう、だからみんなで『オイ、岩隈投げねえのかよ!』って。弱い僕らが悪いんですけど」と続けた。
普段は取材対象者と一定の距離を取るスタンスでもあり、セリフめかした言葉とはいえ「岩隈」と呼び捨てにすることはためらいもあった。だが、今この空間にいるのは「取材対象の岩隈」ではない。「
「いや~、なつかしいなぁ……」
そう漏らした岩隈に、私は「はい。僕も今日は10年分の恨み言を言えてよかったです」と返す。岩隈は前にもまして、大きなリアクションで笑ってくれた。
私はそんな岩隈を見ながら、不意に勝手な使命感に襲われた。いま、このことを言わなきゃいけない。思うより先に、口が動いていた。
「岩隈さんは僕ら同じ年に西東京でプレーしていた者にとっては、誇りなんです」
すると、岩隈の顔からは緩やかに笑みが引き、
「いやいや……。でも、頑張っていかなきゃいけないですね。河内もいるし」
河内とは、岩隈と同期入団で当時広島に所属していた河内貴哉のことだ。國學院久我山時代の河内は、ドラフト会議で3球団から重複1位指名を受けた大物だった。
夢をつかめなかった俺たちの分まで……。そんな青臭い言葉は恥ずかしすぎて言えなかった。だが、
この出来事から、11年の時が経った。
岩隈はマリナーズに所属した2017年に右肩痛を発症して勝ち星なしに終わり、翌年もMLB登板を果たせず退団。2019年から巨人に移籍したが、昨季の1軍登板機会はなかった。河内は2015年に引退し、岩隈にも少しずつ「その時」
とはいえ、今年の岩隈はブルペンで投球練習を重ねるなど、順調に調整を続けているようだ。新型コロナウイルスの影響で開幕が6月19日までズレ込んだことも、岩隈個人にとっては追い風になるかもしれない。
11年前の岩隈との邂逅を機に、それまで私のなかにくすぶり続けていたみすぼらしい炎は小さくなった。だが、完全に消えることは一生ないだろう。むしろ、「岩隈を恨ませてほしい」というのが密かな願いなのだ。
岩隈さんは僕ら同じ年に西東京でプレーしていた者にとっては、誇りなんです。
偉大な投手の前で死ねなかった男としては、これからも恨み続けることがせめてものエールなのだ。
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