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©2017 映画「ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章」製作委員会 ©LUCKY LAND COMMUNICATIONS/集英社

 三池監督の試みは確かに成功している。主役の山﨑賢人をはじめ、あんなヘンテコな髪形と衣装を着た人々がかっこよく、魅力的に映ることだけでも「映画の奇蹟」と言っても過言ではなく、それだけでも木戸銭を払うに値する。ことに、今作でのラスボス・虹村形兆役を演じる岡田将生など、原作キャラを遥かに上回るオーラを放っていると言っていい。「さすが三池監督! おれたちにできない事を平然とやってのけるッ そこにシビれる! あこがれるゥ!」とジョジョ第1部の名台詞を引用して褒め称えたい気分である。

 が、我々ジョジョラーにとっての真の衝撃はそこにはない。私たちが本当に驚くべきなのは「舞台をスペインにしたことで、逆に原作の『本質』が顕わにされてしまっている」ということだ。「全面的に原作に屈服していたはずの映像側からの、原作への逆襲」こそが、この映画の最大の見どころなのだ。

「杜王町=ゴッサムシティー」説

 第4部について、荒木先生は「日常の中に潜む悪を描くのがテーマ」ということを度々発言されている。だが、映画に映し出された「スペイン版杜王町」は「日常」どころか「非日常」の塊であり、広大なお化け屋敷のようにさえ見えるおぞましい場所だ。そこに跳梁跋扈するスタンド使いたちが引き起こす猟奇的犯罪と、それに立ち向かう、これまた常軌を逸した精神のスタンド使いたち――。これってどこかで見たことがある……、と考えていて、ハタと思い至った。そう、「バットマン」の世界観そのものなのだ。

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ニューヨークがモデルともいわれる「ゴッサムシティー」 ©iStock.com

「スタンド」は「精神のコスプレ」

 バットマン自身も、バットマンの敵たちも、精神的な歪みや強いコンプレックスを抱えた「フリークス」たちであり、それをそのまま奇妙なマスクや衣装の形で「自己表現」している。そして、こうした人々が活躍することを許される場として設定された架空の街が「ゴッサムシティー」だ。ゴッサムは「仮装が許される仮想の街」として設定されており、ゴッサムから出た瞬間にバットマンはただの「コスプレの変なおじさん」になってしまう。ゴッサムシティーが存在するからこそ、バットマンは存在できる。着ぐるみのミッキーマウスが、ディズニーランドの中だけでは「リアルなキャラクター」になれるように。

 一方、ジョジョの作品世界を決定づける「スタンド」とは、操る人間の欲望や本質がそのまま、形や能力となって顕れたものだ。「人間の業」「運命」を可視化したものであり、「精神のコスプレ」と言ってもいい。そんなコスプレイヤーたちが戦う場も、やはり「日常」ではあり得ない。「ジョジョの奇妙な冒険 第4部」の本質は、「杜王町」という「ゴッサムシティー」を舞台にした、精神的フリークスたちの「幸せに生きる=自らの業、運命を全うする」ための戦いの記録に他ならなかったのだ。

“続編”最大の敵は「吉良吉影=ジョーカー」

 私は「ジョジョラー」「ジョジョ紳士」を自称していたにもかかわらず、これまでは荒木先生の言葉にすっかりだまされて(もちろん、荒木先生ご自身も自らの言葉にだまされ続けているわけだが)、「杜王町=どこにでもある普通の街」と勘違いしていた。三池監督の「映画版ジョジョ」はそんな私の見方の浅さを、背中をどやしつけるようにして正してくれた。これぞまさに「天才の業」と言っていいだろう。自らの行為が、自らの意図を超えたビジョンを他者に見せてしまうことこそが「天才の証し」なのだから。

 そして、ここまで読み進めてくれたあなたは、すでに気づいていることだろう。荒木飛呂彦の「天才=狂気性」と、三池崇史監督の「天才=狂気性」が真っ向からぶつかり合うのは、いよいよ吉良吉影が登場する「ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第二章」であることを。荒木飛呂彦も三池崇史も、吉良と同様に「サガを背負いつつも、幸せに生きよう」としている人なのだ。

 クリストファー・ノーラン監督が手がけた「バットマン三部作」でも、第一作の「バットマン ビギンズ」はさほどの作品ではなかったが、バットマン最大の敵である「ジョーカー」が登場した第二作「ダークナイト」では、信じられないくらいに大化けした。

 ジョジョの「第二章」でも同様のことが起きる可能性は、決して小さくない。

INFORMATION

『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章』
8月4日(金)全国超拡大ロードショー
配給:東宝/ワーナー・ブラザース映画
https://warnerbros.co.jp/movie/jojo/