舞台のスケールアップを避けた荒木飛呂彦の“賭け”
でもね、そうは言いながらも、一抹の不安もあったんですよ。最大の理由は「原作の弱さ」。
もちろん、ジョジョという作品全体のことを言っているわけじゃない。今回映像化される「第4部序盤」はおそらく、単行本100巻を超えるジョジョ史上の中でも、最も「作品として弱い」部分なのだ。
理由は簡単で、「荒木先生の狂気=創造性」が十分に噴出しきっていないから。言葉を換えれば「荒木先生の理性」が、自らの狂気を存分に噴出させるだけのお膳立てを整いきれていないから。
第1部の舞台は19世紀のイギリス。第2部は1930年代のアメリカ、メキシコ、イタリア。第3部は1989年のユーラシア大陸。ジョジョの物語の舞台は、時系列を追うごとに加速度的に広がっていく。それは、荒木先生の内的世界のスケールアップに伴う必然だろう。だが、第4部の舞台は一転して、日本の都市郊外の小さな街・杜王町だ(だからこそ、制作側は予算的にも映画化には最適、と判断したのだろう。つくづく凡庸な発想である。私ならば第1部を換骨奪胎して、現代日本を舞台にやっちゃいます)。
荒木先生の連載当時の意図はよく分かる。先生は恐ろしく賢い方だ(おそらくはディオ・ブランドー並に)。だから「少年ジャンプ」的な強さのインフレ化、舞台のスケールアップには早晩限界が訪れることを、敏感に察知されていた。だからこそ、第4部では「日常を舞台にする」という、本来、自らの資質とは相いれないチャレンジをしたに違いないのだ。そして、そこから湧きだしてくる自らの新たな狂気=可能性に賭けよう、と。
「日常」に産み落とされた“宿命的殺人鬼”
現在の目から見れば、「荒木先生は見事に賭けに成功された」と断言できる。ジョジョ全編を通じて、ディオに匹敵するか、あるいはそれを超えるかもしれぬ蠱惑的なヴィラン(悪役)、吉良吉影(きらよしかげ)を創造することに成功したからだ。
吉良の魅力は、彼自身の次の言葉に集約されるだろう。
「わたしは人を殺さずにはいられないという『サガ』を背負ってはいるが……………『幸福に生きてみせるぞ!』」
吉良は、杜王町に潜む殺人鬼だ。利害関係や復讐心に駆られて人を殺すのではない。「人を殺す欲望とその快楽」が「自らの生きること」の一部に、否応もなく組み込まれてしまっているのだ。それは、彼自身が選び取ったことではない。哲学者の竹田青嗣が初期の傑作『陽水の快楽』で、フッサールの現象学と井上陽水の楽曲を手がかりに喝破したように、「欲望とは、自意識の外部から訪れるもの」であるからだ。
食欲も性欲も睡眠欲も、私たちは理性の力では完全に制御することができない。それは「自分の理性を超えた身体性」の次元からやってくるものだからだ。ましてや、自らの「生きる理由」と不可分である「根源的な欲望」に抗うことなどできるだろうか。そうした根源的欲望のことを、人は「運命」と呼ぶのだ。