表面上、原作に“全面屈服”した三池崇史
答えは「何もしなかった」。唯一、「杜王町をスペインにしてしまった」という大どんでん返しを除いては。
率直に言って、三池監督はジョジョという原作への「愛」はないだろうし、映画からもそれは感じられない。かつて自ら語ったように「企画はきっかけや方便に過ぎず、過程こそ映画」というのが三池監督の映画観。監督にとっては「ジョジョ」という大物作品さえ、「自分の生きる悦びであり、運命でもある映画作りをやるためのきっかけ」に過ぎないのだ。これも自らの言葉だが、「実際に撮っているとおもしろくて夢中になって、つい我を忘れちゃう。スポンサーとの約束を守るよりも、『今、乗っているこの役者を、もっともっと走らせて撮るぞ!』ということになる。その結果できあがったものが、最初の約束と違ってもそれは仕方がない」というわけだ。
もっとも、今回の「ジョジョ」は、「愛と誠」のように原作を徹底的に「映画のダシ」として使い切ってしまったような作品ではない。ジョジョは集英社のキラーコンテンツの一つであり、「原作を冒瀆した」という声が出るのは絶対に避けなければならない。「映画づくり」を続けるためには、決してそうした一線を超えてはならない――。そうした世間側の要請に対して、表面上は全面屈服してしまうリアリズムこそが、三池監督の真骨頂であり、「狂気を内面に抱えつつも、幸せに生きたい人々」が学ぶべき姿勢の一つだろう。原作の登場人物たちの奇妙奇天烈な髪形や服装まで忠実に再現しているのも、その現れだ。「どうだ、ここまでやっているんだから決して文句は言わせないぞ」というわけだ。
では、「単に制作者側の意向に従順に従うだけで、クズ作品を量産する凡庸な監督」と三池監督とを隔てるものは何だろうか。それは、三池監督の映画愛の核心にある「役者、すなわち人間を撮ることへの愛」だ。
先に引用した発言からもうかがえるように、三池監督が映画を撮影する上で最も悦びとしているのは「役者の生命力をフィルムに定着させる快楽」だろう。役者が監督とのセッションの中で次第にノリノリになり、自らの赤裸々な内面を噴出させてゆく瞬間――。それこそが三池監督を映画作りに駆り立てるものであり、私たちが三池映画の虜となる最大の理由でもある。三池監督の「十三人の刺客」で、四つんばいになって飯を喰らう稲垣吾郎が見せた狂気に、戦慄しなかった観客はいないだろう。あれは、三池監督が稲垣に「狂気の演技指導」をうまくやってのけた成果ではない。稲垣自身の内面に潜在していた狂気が、三池という触媒によって顕在化した瞬間だったのだ。三池監督との仕事を待ち望む俳優が多い理由はよく分かる。自らの新しい引き出しを作ってくれる監督だからだ。
「スペインロケ」敢行の理由
逆に言えば、三池監督が映画を作るにあたって絶対に妥協できない条件は、「役者を生き生きと撮ることができる環境を整える」の一点だろう。撮影セットがいかにチープであろうと、予期せぬ天候の急変があろうと、屁でもない。「絵」としての映画はそれらの条件によって大きく左右されるだろうが、「人間を撮る」という映画の本質にフォーカスするならば、それらは枝葉の要素に過ぎないからだ。
荒木先生は、漫画として訴求力の強いキャラクターを創造するためのコツとして「シルエットを見ただけでどの人物か分かる」ということを挙げる。だが、そんな登場人物たちをそのまま現実の世界で再現したら、ただのコスプレになってしまう。ものすごいコスプレをした俳優たちをいかに生き生きと撮影し、自らも映画作りを楽しむのか――。その難題に対する三池監督の答えが「スペインのシッチェスをロケ地にする」ということだった。現実面で言えば、海外ロケになれば当然、製作費ははんぱなく跳ね上がるだろう。制作側の不興を買うことは目に見えており、それを強行しただけでも、三池監督の肝心要の部分での「映画に妥協しない姿勢」は明らかだ。