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「ジョジョの奇妙な冒険」映画版の逆襲――なぜ、舞台はスペインでなければならなかったのか?

サブカルスナイパー・小石輝の「サバイバルのための教養」

2017/08/20

抗えない自らの運命を受け入れ、どう生きるか

 吉良は自らの「運命」を自覚し、運命には抗えないことを自覚している。ならば、その運命を受け入れた上で、自らの全力を挙げて幸福を追求する。そのためには、どんなことでもやってのける――。その「覚悟」こそが、吉良の強さの秘密だ。

 荒木先生は「ジョジョのテーマは『人間讃歌』」と繰り返し述べている。だが、ここで言われている「人間讃歌」とは、陳腐なヒューマニズムや人間愛などではない。「自らの運命を受け入れ、覚悟を決め、全力で生きるあらゆる人々」への讃歌なのだ。だから、吉良のようなタイプであれば、殺人鬼さえも「讃歌」の対象となる。それこそが荒木先生の作家としての業であり、狂気なのだ。

 荒木先生は、第4部の主人公・東方仗助(ひがしかたじょうすけ)と吉良との最終決戦において「吉良の方が勝ちそうになって本当に困った」「1ページ1ページを描き進めるのがつらかった」という趣旨の発言をされている。「善だから勝つ」「悪は必ず滅びる」という世界観ではなく、「自らの運命を肯定し、より覚悟を決めた方が勝つ」、という世界観に立っているからこそ、ジョジョという作品は少年漫画であるにも関わらず、蠱惑的で危険な魅力を放つ。

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©2017 映画「ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章」製作委員会 ©LUCKY LAND COMMUNICATIONS/集英社

 その代償として支払われるのは荒木先生の内面で繰り広げられる壮絶な「善と悪との葛藤」だ。少年漫画である以上、「善」を勝たせなければならない。だけど、どう考えても「ベビーフェイス=善玉の仗助」よりも「ヒール=悪役の吉良」の方が、「覚悟」の度合いにおいては上なのである。「少年漫画の枠を守れという編集部=世間からの要請」と、「場合によっては殺人鬼をも讃えるという自らの内面」との根源的な対立と矛盾。それをどうアウフヘーベン(止揚)するのか。そのギリギリの攻防の過程が、そのまま作品として定着されているのが「ジョジョ第4部」の最高に美味しいところなのだ。

 だが、今回、三池監督が映画化したのは、吉良がまだ登場していない序章部分。荒木先生自身、杜王町にどんな悪が潜んでいるのか、そして仗助はどんな理由で戦うのか、描きながら探っているような段階なのである。私自身、1992年の連載当時は「今度のジョジョは何をやりたいのかよく分からん」と思っていたぐらいだ。

 では、三池監督はそんな「原作の弱さ」にどう対応したのだろうか。