職場で一番困るのはトイレだ。車椅子可のトイレが同じ階にあるものの「多目的トイレ」という名前のせいか多くの職員が利用し埋まっている時の方が多い。いつ出てくるかわからない人を待つにせよ1階トイレまで降りてみるにせよ、席に戻る頃には約20分経っている。同僚の目は冷たい。
消灯時間を自分で決められるのが唯一の慰めだ。 夜更かしして翌朝後悔するという経験も障害者施設にいた頃は味わえなかった。
生活そのものが政治である理由
これらは全て政治だ。政治とは生活そのものだからだ。生活上の全ての行為は、政治が作る制度の上に成り立っている。
もし生活の中で政治や制度を意識せずに済むとしたら、それはあなたが幸運にもマジョリティに属するからだ。
「健常者はしょうがいしゃのことを気にかけないでも生きていけるかもしれないが、しょうがいしゃは、健常者を無視して生きていけない。」という言葉がある(注1) 。
札幌の知人に「雪が積もったら車椅子の人はどうやって街を歩いてるの?」と聞いたら「街で車椅子の人を見かけないから考えたことなかった」と返された事がある。彼は意地悪な人ではない。障害者やその抱える問題自体が彼の世界には存在しなかっただけだ。
急に政治づき始めたマジョリティ
「健常者の政治に対する無自覚性への糾弾が始まるな」と記事を閉じかけたあなた、どうか待って欲しい。確かにこの原稿はそういう趣旨で依頼された。SNS上でも、普段から政治や制度に翻弄されているマイノリティの、急に政治づき始めたマジョリティに対する「今更?」という苛立ちの声も散見される。その気持ちはよく分かる。ただ、マジョリティが政治に関心を持ち始めたこと自体は歓迎すべきだ。
政治に関心を持ち始めたはいいが、「問題提起ばかりしていると “浮いて”しまうのではないか」「 “色”がつくように思われるのではないか 」と戸惑っているマジョリティの人も多い。この点では普段から政治性を帯びるマイノリティの経験が参考になる。以下では2人の障害者を例にとり考えていきたい。
私の場合、以前は生活上の不便を感じたらなるべくその場で自己主張していた。遠慮していたら私の意思など初めから無かったことにされる。とはいえ、個人の力でどうにもならないことを指摘されれば誰しも気分が悪い。時にはそれが身近な人との関係性すら損なうこともあった。
周囲の人を徹底的に苛め抜くことで満足する障害者もいる。ある意味幸せな生き方だろう。ただ私はそちらにも振り切れずにいた。周囲の立場も理解できるからだ。