90年代から明らかだった、挺対協の性質
挺対協が設立されたのは1990年11月のことでした。当時は太平洋戦争犠牲者遺族会のほうがはるかに大きい組織でした。
太平洋戦争犠牲者には軍人軍属、遺族といった、いろんな被害者がいました。私の関心も、慰安婦だけにあったわけではなく、多くの被害者のかたを支援することにありました。だから、当時は挺対協のことを気にもとめていませんでした。
ある時、挺対協の共同代表である尹貞玉(ユン・ジョンオク)氏とお会いする機会がありました。彼女は上品な学者さんという印象でした。
太平洋戦争犠牲者遺族会はみな極貧の育ちの人ばかりです。農民や漁民の方が多く、元慰安婦の女性たちもクズ野菜を売って生活をしていたり、清掃員をしているなどこれまた貧困の方ばかり。被害者支援に取組むためには、いろんな境遇にある人たちを思いやれる「感受性」が大事だと私は思っています。尹貞玉氏のようなお上品なかたで、本当に大丈夫なのかなという不安が頭を掠めたことを覚えています。
被害者は元慰安婦だけではありません。東京裁判は多くの被害者のための裁判でした。しかし挺対協が盛んに慰安婦問題を喧伝するようになり、やがて東京裁判は“慰安婦裁判”と見られてしまうようになってしまいます。
私としては納得ができず、尹貞玉氏にこう言いました。
「慰安婦だけが女性問題ではありません。遺族会には未亡人や遺児もいます。女性人権問題として取り組むなら、こうした人たちも含めて一緒に取り組むべきです」
尹氏は「そうですね」と答えました。
しかし、彼女が慰安婦問題以外の支援に乗り出したりすることはありませんでした。挺対協の本質が、ここに表れていると思います。広く弱者に手を差し伸べようという考えは、彼女たちにはなかった。
尹美香のついたウソは個人の問題ではない
いま尹美香(ユン・ミヒャン)がついてきたウソが、韓国メディアで話題になっています。でもそれは、尹美香個人の問題とは必ずしも言えません。
挺対協自体がウソをつくことが多い団体だったからです。
1997年に金学順さんが亡くなったとき、挺対協は墓碑の横にこんなメッセージを書いたのです。
〈東京の補償裁判は金学順さんが提訴して始めたものだった〉
金学順さんは原告の一人ではあったけど、彼女が始めたわけではない。前述のように補償裁判は太平洋戦争犠牲者遺族会が提訴したものです。遺族会の人々は長年苦労してやっと始めた裁判です。それを無視するかのようなメッセージをあえて残すところに挺対協の本質がよくあらわれています。
私には「被害者を利用してきた」と告発した李容洙さんの気持ちがよくわかります。この30年間、挺対協は本当に被害者に向き合ってきたと胸を張って言えるのでしょうか?
(#3は後日公開)
(インタビュー・赤石晋一郎)
<引用出典>勝山泰佑「海渡る恨」(韓国・汎友社、1995年)
赤石晋一郎 南アフリカ・ヨハネスブルグ出身。「フライデー」記者を経て、06年から「週刊文春」記者。政治や事件、日韓関係、人物ルポなどの取材・執筆を行ってきた。19年1月よりジャーナリストとして独立
勝山泰佑(1944~2018)韓国遺族会や慰安婦の撮影に半生を費やす。記事内の写真の出典は『海渡る恨』(韓国・汎友社)。