金学順さんには不幸な背景がありました。平壌出身の金学順さんが思春期のころ、母が再婚したものの、継父との折り合いが悪かった。彼女は継父のことが嫌で家を飛び出し、女性一人で自活していくために自らの意思でキーセン学校に入校したのです。
平壌のキーセンでは19歳にならないと、お座敷などで働けなかった。若すぎた金学順さんは平壌を離れ、職を求めて養父(仕事を斡旋する男性)と共に中国に渡った。そして運命に翻弄されるような形で慰安婦となったのです。
葛藤を抱えながら生き抜いた金学順さんの涙
金学順さんは、戦中に朝鮮人の男とともに部隊を脱走し、結婚して2児を授かります。しかし戦後、夫が事故死してしまい、2人の子供も病気や事故などで亡くしてしまいます。既に南北が分断したため、故郷の平壌に帰ることもできませんでした。彼女は放浪しながら、孤独な半生を送ることになってしまったのです。
1996年2月、日本の自治労の支援で遺族会ケアセンターが開設されました。様々な被害者の方が集い、寝泊まりできる施設として発足したのです。孤独だった金学順さんもみなが集まれる場所が出来て喜んでいました。
センターに集った人たちと、金学順さんが一緒に旧正月を祝おうという話になりました。38度線・板門店の近くに北朝鮮出身者が参拝できる石碑があります。そこにみなで参拝に行くことになったのです。
そのとき、金学順さんが石碑に抱きついてオイオイと泣き始めたのです。
「お母さん、ごめんなさい。ごめんなさい」
彼女は平壌の方に首を垂れながら、泣きながら繰り返し謝っていました。確執があったといえども肉親です。親不孝をしてしまったことについて金学順さんは悔いがあったのです。何度も、何度も謝っていました。
金学順さんはキーセンに行ったことを後悔していたのだと、私は思いました。だから私たちのヒアリングに対して口が重かったのだと思います。金学順さん自身がいろいろな葛藤を抱えながら、戦後を生き抜いてきたことを改めて思うと、私も胸が痛くなりました。
裁判が始まって2年後、始めて金学順さんが法廷に立ちました。そのときの証言は検証を重ねた、正確なものだったと思います。慰安婦問題には詳細な実態調査が必要だと私は思っています。しかし、次回以降で詳述しますが挺対協はそうした動きを常に阻害してきました。