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両親が失踪するも、先生のすすめで大学へ

 私は大阪府で生まれ、南九州の先端の小さな田舎町で育った。かなり特殊な家庭環境で、小学生の頃に両親が失踪し、それ以降は兄とともに祖母や親戚などの家を転々として生活していた。

 そういう環境だったせいか、中学校がもうすぐ終わるという頃、漠然と卒業したら働くかと思っていたのだが、当時の技術科の先生に熱心に進学を勧められ、学費免除などの多くの支援を受けて、大学、そして大学院にまで進学することができた。これには今でも大変感謝している。

写真はイメージ ©︎iStock.com

 しかし、この幸運もこのころまでで、大学院を修了する頃になると、世間は就職氷河期となり、私も例外なく、その影響を受けることになった。それでも手取り13万、日給月給制の契約社員というかなりの悪条件ではあるものの、何とか就職することができ、当時はただ本当にうれしかったことを覚えている。

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3年間働いた会社で突然解雇を言い渡された

 そこから3年間、ただがむしゃらに研究開発職として働き、いくつかの特許製品を上市するなど、自分のなかでは次の契約更新で正社員になれるだろうと考えていた。

 ところが、その考えはあっけなく裏切られ、2006年の2月、勤めていた会社から解雇を言い渡された。

 頭が真っ白になったと同時に、すぐにこれがとんでもないことを意味すると理解することになる。当時の私は会社が契約者になっていた借り上げ社宅に住んでいて、ここを追い出されると実家もなく、住む家がなくなる。また、当然貯金もなければ、契約社員で退職金もでない。それどころか大学院までの奨学金と進学の際に親戚に借りたお金が借金として残っている。

再就職先での「2度目の裏切り」

 退職が決まってからすぐに様々な会社に再就職のために応募したが、そのどれもが不況を理由に採用がとても厳しく、いい返事をもらえることがないまま刻々と解雇の日が迫っていた。最後の1週間というところで神奈川県の会社から採用の話をもらい、私は急いでアパートの中の家具をすべて処分し、必要なパソコンと着替え類をキャリーバッグに詰め込んで、神奈川県へと向かった。

 そこで、私はもう一度裏切られることになる。

写真はイメージ ©︎iStock.com

 横浜の採用通知をもらった企業を訪ねると、その場で会社の経営が厳しく私の採用が取り消しになったことを告げられたのである。その時のことを今でも覚えているが、目の前がまっくらになるというのはこのことかと初めて思ったほど、急に視界が暗くなっていく。

 と同時に、佐賀に戻ろうにもすでにアパートも家財道具もない、実家はすでに誰もおらず、親戚に借金をしている状態のため、戻ろうにも戻れない。最初の一ヵ月は手持ちのお金を少しずつ切り崩しながら、ネットカフェや、当時まだ横浜にもあったユースホステルに泊まっていたものの、それも長くは続かず――ついに私はホームレスとなった。