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私が女ふたりの「百合映画」に“呪い”をかけられた日から、新書で300本紹介『完全ガイド』を作るまで

2020/07/28
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幸い同様の「症状」に苦しんでいる友人が2、3人見つかった

 そして海外での高い評価にもかかわらずごく一部の作品をのぞけば、日本でそれらの映画が特集的に取り上げられることは数少なかった(ように思えました)。本書以前にこうしたガイドブックは(1993年の『ラヴェンダースクリーン ゲイ&レズビアン・フィルム・ガイド』などのごく一部と『百合姫』などでの特集をのぞけば)存在せず、あったとしても同年代=2010年代以降の作品をおさえてくれているとは思えず、これは自分らで作り出す必要があると思いました。幸い同様の「症状」に苦しんでいる友人が2、3人見つかり、何らかの目処がたっていきましたが……。

写真はイメージ ©︎iStock.com

邦画はさらに沼だった

 実際に作りはじめてみると、邦画はさらに沼でした。『花とアリス殺人事件』や『blue』は氷山の一角にすぎませんでした。クロード・ガニオン『Keiko』や矢崎仁司『風たちの午後』、那須博之『セーラー服 百合族』……。邦画のいわゆる「女ふたりの映画」を観ていくと、奇妙なことに「リアル」の問題に当たりました。いわゆるカサヴェテス調と言われているような大仰で恫喝的なセリフをどこまでも忌避する親密な友人との(もしくはそれ以上の関係にあるふたりの)おしゃべり。

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 もしくはその逆を極端に推し進めた傾向の映画、たとえば鈴木清順『悲愁物語』、高橋伴明『愛の新世界』、そして増村保造『卍』。90年代に入ると静けさを志向する方面はさらに洗練されていったように感じました。会話は極端に静かになり、もはやボリュームをかなりあげないと聞こえなくなり、いわゆる本音の会話、観客に向けて状況を説明しているセリフはなくなっていき、生活の必要最低限の会話の中でのかすかな仕草や暗に意味されているものを見つけ出すように求められるような映画が多く目に付きました(これはいわゆる「J・ムービー」というかつての括りのなかの傾向であったと言えるかもしれません)。それはたとえば石川寛『tokyo.sora』、廣木隆一『ガールフレンド』、風間志織『火星のカノン』、新藤風『LOVE/JUICE』……。当時の宣伝や評論を読むとそうした映画は「雰囲気」、「邦画らしさ」などの言葉とともに扱われていたようです。とはいえ、いずれも集中的に取り上げられることはなかったようでした。