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間寛平が初代だった『24時間テレビ』のマラソン

 間寛平はランナーという一面も持つ。マラソンを始めたのは、東京進出の前後のことだった。そもそものきっかけは、夢にマラソンの瀬古選手が出てきたからだとも、吉本の社員から、青梅マラソンでタイムが3時間を切ったらギャラを倍にすると言われたからだともいう。青梅マラソン(30キロ)に初挑戦したのは1986年で、2時間26分で完走した。後者の説には続きがあり、おかげでギャラは倍になったが、それでも安いので、今度はホノルルマラソンで、同じく日本からエントリーしていた郷ひろみより早くゴールしたら倍にしてもらうと約束させた。このときも賭けに勝って、ギャラはさらに倍になったという。

東京進出前後からマラソンを始めた ©文藝春秋

 その後も国内外のマラソン大会に出場し、1988年にはギリシャの鉄人レース「スパルタスロン」に初挑戦した。これは36時間以内に246キロを走り切るという厳しいレースで、さしもの寛平も続く1990年と2度にわたってリタイアした。しかし、1991年には35時間04秒で見事完走する。日本テレビの『24時間テレビ』でその後毎年恒例となるマラソンも、寛平のこうした活躍から生まれた。これは彼の元マネージャーが、番組プロデューサーから『24時間テレビ』が1992年に15回目を迎えるにあたり何かいい企画はないかと訊かれ、提案したものだった。このときのコースは、スパルタスロンより短い200キロに設定されたものの、途中153キロの地点でリタイアした。番組内では寛平が疲労で倒れ込んだ姿を映してリタイアとなったが、のちに本人が『ダカーポ』誌のインタビューで明かしたところによれば、実際には沿道に人が集まりすぎて危険な状態に陥ったため、やむなく中止されたという。翌1993年には、コースを事前には公表しない処置がとられ、見事200キロを完走。その2年後、1995年には、阪神・淡路大震災の被災地となった神戸から東京まで600キロを1週間で走り抜いた。震災では、義母が建て、寛平も東京進出まで妻子と暮らしていた宝塚の家も全壊した。このため彼は借金して家を建て替えている。

2008年12月から地球を1周する「アースマラソン」に挑戦。2011年1月に走破 ©文藝春秋

がんのホルモン療法をしながら「アースマラソン」

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 ランナーとしての寛平のチャレンジはなおも続く。2008年12月には「アースマラソン」と称して地球を1周する一大プロジェクトをスタートする。そのため芸能活動を一時休止し、ランニングとヨットで18カ国を巡り、スタートから2年1カ月が経った2011年1月に見事走破する。この間、北米大陸2000キロ走破を達成した2009年5月には、友人だったミュージシャンの忌野清志郎の訃報に接する。清志郎はアースマラソンを前に寛平から依頼を受け、がん闘病中にもかかわらず応援ソングを2曲つくってくれていた。プロジェクトの行程は、テレビクルーも同行して日本にも逐一伝えられたが、清志郎が亡くなったのを知って号泣する寛平の姿はいまも印象に残る。このあと、2010年1月には寛平自身も前立腺がんが見つかった。トルコのイスタンブールを走っているときだったが、幸いにも初期のがんだったため、医師からは「完走してから手術しても間に合う」と言われ、ホルモン療法を受けながら走り続けた。結局、その後も転移は認められず、現在にいたっている。