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監督という打席に、代打として立ったのだ

「野球をはじめてから、
 はじめての夏休みなんで
 どう過ごせばいいかまだわからなくて」

 ところが、この言葉を聞いた瞬間に僕のなかにあったわだかまりが嘘みたいに消えていくのがわかった。それからゆっくり心の底の方から温かい気持ちがにじみでてくる。悲劇の天才なんて僕らが勝手にそう言っているだけで、きっと本人は日々を信念をもって歩き続けてきただけなんだろう。すべてを受け入れて前に進んできただけなんだろう。僕たちはその背中に勝手にたくさんの物語を押しつけていただけなんだ。このひとは今も変わらずに黙々と道を歩いているのだ。僕たちは彼を天才と呼んで、そこに悲劇なんて言葉を安易につけて、その言葉の檻に彼を閉じ込めようとした。

 すべてにおいて2番がいい。何かひとつずば抜けたものを手に入れようとして他を犠牲にするくらいなら、全部2番がいい。そうすれば自分を見失わずにいられる。高橋由伸が選手時代にそう語ったことがある。当時は物足りない発言だと思ったが、今あらためてその言葉を見ると、大事なのは自分を見失わないこと、のほうだとわかる。他人が思い描く高橋由伸を追うとそれは自分ではなくなる。そんなことを思っていたのかもしれない。あらゆる技術のバランスのとれた集積こそが自分という選手としての生命線で、外からの声を牽制するための言葉だったのかもしれない。悲劇の天才を演じるために打席に立つのではない、ただ野球をするために打席に立つのだ。ときに王子様と揶揄されても高橋由伸はそのスタンスを最後まで変えなかった。わかった。監督という打席に、代打として立ったのだ。ただ野球をするために。

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すべてにおいて2番がいい ©文藝春秋

 高橋由伸の打球は本当に美しかった。今、無観客の試合や5000人限定の試合を観ていると打球音が球場に響く。それはそれでとても楽しいのだが、僕らが何度も見上げたあの放物線はいったいどんな音がしたんだろう。岡本のようなガン!という音とも違う、亀井や尚輝のようなカンッ!という音とも違うはずだ。最短距離でバットをボールに向けて振り抜くあの美しいスイングはいったいどんな音をさせただろう。きっと短く硬い破裂音だ。無駄のない音だ。きっとボールが歓ぶ音だ。あるいはバットに乗って運ばれるその音は意外にも柔らかな音だろうか。

実況「高橋選手の打球音はどの選手とも違いますねぇ」

解説「力みのないスイングがこういう音をさせるんですね」

実況「それにしても美しい放物線でした」

 実況はきっとゲームの展開よりも先に打球の話をするだろう。高橋由伸の打球は間違いなく他とは違う特別なものだ。あの放物線は心を踊らせる。長い長い放物線を描いて、僕のなかの高橋由伸の打球はようやくスタンドではねた。

 撮影がすべて終わったあと、高橋由伸とみんなで握手をした。それは撮影後の儀式のようなものだけれど、僕だけは両手で、強く握って、胸のなかで大きく、「ありがとうございました」と言った。高橋由伸選手、おつかれさまでした。

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