降伏の決定打となった秀吉の石垣山一夜城
小田原城を訪れたなら、秀吉が本陣を置いた石垣山城へも立ち寄りたいところです。小田原城からわずか3キロほどの笠懸山に築かれた、関東初の総石垣の城でした。秀吉は西国から石工職人を呼び寄せて石垣を積み、関東で初の天守まで建造。奇想天外な城の出現は北条方の度肝を抜いたようで、『北条五代記』にもその反応が記され、この城の存在が降伏の決定打のひとつになったとされています。
「石垣山一夜城」と呼ばれるのは、秀吉が完成と同時に樹木を伐採させ、小田原城に籠城する北条軍に対して、一夜のうちに出現したように見せるパフォーマンスをしたと伝わるからです。敗色が濃厚となり厭戦ムードが高まる中、見たこともない石垣や天守を目にした北条軍は、財力と権力、余力の差を否応なく見せつけられ、驚きよりも失望のほうが大きかったに違いありません。もちろん、いくら秀吉でも一夜で築くのは不可能で、実際には約4万人が動員され82日ほどかかっています。
崩れかけてはいるものの、現在も城内には総石垣の城の姿がほぼ残ります。関東最古の織豊政権による野面積みの石垣は、突貫工事で築かれたとは思えないほど頑丈。天下人の座に王手をかけた秀吉の、最高峰の技術力に震えます。小田原城の石垣は江戸時代に築かれた上に、関東大震災でほとんどが崩れています。これに対して石垣山城の石垣は、紛れもなく天正18年頃のもの。これほど原型を留めているのは、技術力の差なのでしょう。
本丸の展望台からは小田原城の天守を見下ろせ、眼下には城下や足柄平野、遠くには三浦半島や房総半島も望めます。小田原城の総構を見下ろせるどころか、相模湾まで一望できます。小田原城を包囲する大軍勢の配置を見渡しながら、秀吉は優越感に浸っていたのかもしれません。
撮影=萩原さちこ
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小田原城をめぐる旅の模様は、「文藝春秋」8月号の連載「一城一食」に掲載しています。
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