昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

連載昭和事件史

2020/08/14

「復讐の機会は3年前から狙っていた。きょう決行の動機は、自分に背いて嫁いだ女が里帰りしていたからだ。日ごろから復讐すべく考えていた村人は大体思い通りやっつけた。しかし、中には心なくも良い人を殺している。これはものの弾みだから許してもらいたい。祖母を一人残して死ぬのは心残りなので道連れにした。いま思えば涙が出る。世間の人々よ、孤独の人間や不治の病に悩む若い人々にはいま少し同情の涙を注いでほしい」。記事には現場の貝尾地区の写真と都井睦雄の小学校時代の顔写真が付いている。そして、東日の報道もここで途絶える。一足早く掲載がなくなった東朝と併せ、被疑者が死亡したとはいえ、これほどの大事件の報道がこの程度かと驚く。当時、東京周辺で新聞を読んでいた人がこの事件を知らないのも当然かもしれない。

 大朝は社会面5段で「二十九人殺し 何がこの凶劇を生んだか?」の見出し。犠牲者のうち18人の顔写真を載せている。記事は、岡山地裁津山支部から予審判事と検事らが現場に出張。実地検証を行っているとして、現場の模様を書いている。「加害者の祖母のごときは手おのでメッタ切りとされ、首は血まみれとなって消し飛び、胴体にはダムダム弾を無数に撃ち込まれて凄惨な地獄図絵を現出している」。さらに「愛人漁りから悪鬼へ 病気を嫌ひ(い)彼から去る女・村人 遺書に綴る怒りの文字」の見出しで、睦雄が残した3通の遺書の記述から地区の女性との関わりなど、犯行に至る過程を記している。

「小学卒業後間もなく肋膜炎に冒された。これが彼の不幸の第一歩で、その時は3カ月ばかりで一応治癒し、早熟の彼はやがて部落の多くの女たちと関係を持ち始めた。19歳の時、今度は肺結核に冒され始めた。病勢は次第に進み、間もなくこの事実を知った女たちはたちまち手のひらを返すように彼から遠ざかったばかりか、彼が結核患者だということを部落の人々に触れ回った。こうして彼の憎悪をかった女は2人」。憎悪は殺意にまで発展し、睦雄は猟銃などを手に入れ始めた。

©iStock.com

「ところが、彼の気配を知った部落の人たちは一層彼を警戒し、邪魔者扱いしだしたので、彼の殺意は意外にも部落全体に及び」、彼を恐れた女の1人は「今春津山市方面に転住してしまった。しかし、彼の怪しい気配は親戚の者も感づくところとなり、本年3月、加茂駐在所で厳重説諭を受けて、猟銃だけ残して苦心して用意した凶器一切を取り上げられたのである。だが、堅く殺意を決した彼は駐在所から帰った翌日から再び周到な準備を始め、間もなく日本刀、短刀などを整え」、18日に狙った女2人が「結婚先から帰ったことを知った彼はここでいよいよ殺意を決めたものである」。かなり詳しいが、睦雄の立場に立った解釈だ。

村の人々が語った「睦雄の人物像」は

 実は大朝は5月22日付で2ページの号外を出している。しかし、1面の見出しが「戦慄の卅人殺し」で、犠牲者18人の写真が載っていることから分かるように、内容は22日付朝刊の続報。なぜこの段階で号外なのかは分からない。1面は「周到を極めた 犯行の足取(り)」(見出し)が判明したことを記述。「不治の病から 性格一變(変)」の小見出しの記事では「近隣の人々は口をそろえて語る」として、睦雄の人物をこう表現している。

大阪朝日の号外