「皇后さまは何事も器用にこなされるという少女ではなく、むしろ、ややゆっくりしたご性格だったようです」
こう語るのは元・日本テレビプロデューサーとして数々の皇室特番を手がけた渡邊満子さん。美智子さまの取材をライフワークとして四半世紀。『上皇后陛下美智子さま 心のかけ橋』(文春文庫)で明らかにした、そのお歩みとは。
※2019年4月26日発売の「週刊文春WOMAN」に掲載した記事で、呼称などは当時のものです。
◆ ◆ ◆
光に包まれたひと—初めてイタリアでの取材で美智子さまをお見上げしたときの印象です。お美しさだけでなく、天皇陛下につねに寄り添って支えられ、温かく、ユーモアをもって人々と交流されるご様子。御歌(みうた・短歌)やご著書『橋をかける』(文藝春秋)などで示されたその豊かな感性。この方はきっと生まれてこのかた、この光に包まれた、華やかな人生を送ってこられたものと思っていました。
ところが、美智子さまの身近な方、長くご交流がある方々に取材を重ねていくうち、意外なことも知りました。
たとえばその一つが、後年あれほど才能を開花された美智子さまが、4人のごきょうだいの中で、ちょっと遠回りをしておられるところです。美智子さまは聖心女子大学卒業のときこそ答辞を読まれ、全卒業生中2番という好成績。学生自治会会長の「プレジデント」を務められたことも有名です。
でも、高校卒業までは、特に優等生であったわけではなく、よく遊び、運動場を走りまわる「カモシカのような女の子」だった、と多くの同級生がお話しになるのです。本をよく読み、音楽も大好き。でも、勉強はそれほどお好きでなかったのか、聖心の中等科から高等科に移るときの成績もトップクラスではなかったとか。
「優等生」ではなかった少女時代
正田家の笑い話の一つに、美智子さまだけが小、中、高を通して、ごきょうだいの中でただ一人だけ級長や学級委員になられず、進級時の学業優秀者にも選ばれていないことがある、とうかがいました。
疎開先の群馬県・館林の小学校では「優しくて看護婦さんになれそう」と衛生係に。中学・高校時代は、一貫して体育係だったそうです。
「夫も私もあの子の育った頃が一番忙しく、勉強を見てやるということはほぼ皆無だった」と、のちに母・富美子さんはすまなそうに友人に語られたそうです。
美智子さまは、実は遅咲きの、いわばおくての少女だった、といえるのではないでしょうか。正田家は学者肌で皆さまご優秀なので、その比較においてではありますが……。