しかしながら、優秀なごきょうだいにはさまれて、美智子さまお一人で、試行錯誤されていた日々があったこと、ずっと「優等生」を通してこられなかったことこそ、初めて民間から皇室に入られるうえで無駄ではなかったのではないか、と思うのです。
皇室という新しい、不慣れな環境に入った時も、他と見くらべて自分を見失うことなく、苦境や挫折を越え、自分の道を時かけて忍耐強く歩むこと—美智子さまの、ややゆっくりとしたご性格が、きっと皇太子妃としての困難のなかで助けになったのではないでしょうか。父、正田英三郎さんは、美智子さまの、ゆっくりとした性格をおおらかに見守られたそうです。
美智子さまの世代は戦時下の「国民学校」で6年間学ばれ、正田家の疎開先も鵠沼、館林、軽井沢、また館林と二転三転。
「疎開中と戦後の3年近くの間に5度の転校を経験し、その都度進度の違う教科についていくことがなかなか難しく、そうしたことから、私は何か自分が基礎になる学力を欠いているような不安をその後も長く持ち続けて来ました」と80歳のお誕生日に述べられています。
幼いころから、甘えのない関係
戦時中は、日清製粉を経営する父・英三郎氏と、長男・巌さんは東京に残り、母・富美子さんは正田家の舅、姑をも疎開先で守り抜きました。館林から軽井沢へと一緒に疎開していた叔母と従姉妹が、その父を東京大空襲で失い、母一人娘一人になった悲しみを察して、富美子さんは、自分の子供たちへの愛情表現をとみに控えるようになったそうです。
正田一族の中でも、片親を失ったり、両親の離婚再婚があったりと家庭状況は様々で、英三郎さんが家業を継ぎ、ふた親そろっていたがために、富美子さんはより一層、嫁としての責任を感じ、身を持して婚家の人々に仕えていらしたのでしょう。
美智子さまのいとこのお一人は、
「その母の立場を、子供心に一番よく察し、我慢強い、わがままなところのないお子として成長したのが皇后さまであった」と語られていたそうです。
ご婚約中、常に寄り添われていたため、仲のよい母子という印象が語られていますが、幼いころから、甘えのない関係を貫き、克己的に生きてこられた母子なのです。