事件発生から1年後、いじめの事実が認められる
その後も調査委は遺族と対立した。市教委が調査委に「遺族が予断をもったことを言っている」などと抗議していたからだ。一方、遺族からの抗議に対しては、ゼロ回答が続いた。このころ、学校や市教委は、「家庭内に虐待があったのではないか」と菜絵のいじめ自殺を家庭内の問題にすり替えようとしていたふしがある(朝日新聞、15年4月25日付と遺族の証言による)。
遺族側は、調査に協力しないことにした。情報を持っていても、学校や市教委は調査委に伝えない。調査委と遺族側は信頼関係を築けず、調査は空転が続いた。公正中立を疑われた調査委は、9月17日に解散した。その直後、「橿原市立中学校生徒に係る重大事態に関する調査委員会」という第三者の調査委員会(第三者調査委)を設置することで、遺族と市教委が合意する。
生徒たちへの聞き取り調査は、第三者調査委が発足する11月になってからの実施となった。延べ105人の生徒や教員から聞き取り調査をした報告書は、翌14年4月23日に公表された。この報告書によって、いじめがあったという事実は認められた。
批判された市教委と学校の対応
報告書は、友人関係の変化やトラブル、学校生活のストレス、家族関係の不満などの精神的疲労が蓄積され、菜絵の衝動的な自殺につながったとした。つまり、自殺の原因については、複合的な要因によるものだと結論づけた。
LINEでのいじめは認定された。亡くなるまでの1カ月のあいだ、友だちのタイムラインにはこう書かれていた。
ほんま、うざい。消えてよね
KYでうざい。さよなら
いじめの加害者が投稿した内容を見て、自分のことだと思った菜絵は、手紙を回し、その友だちに「あのタイムラインは誰のこと?」とたずねている。すると友だちは、「菜絵のこと」と手紙を返した。そして、菜絵は3月6日のタイムラインに「ぁー学校めんど。笑」「あいつらとおんなし空間におるだけで吐き気がするゎ…」と書いている。
また、第三者調査委に提出された菜絵の日記は、12年10月6日から始まり、書かれているのは延べで10日くらい。12月12日の日記には「□□(筆者注…加害者名)たちになんかしたんかな?(筆者注…自分自身が)いらない子なのかな? 死ねるものなら死にたい」と書かれていた。ただし、同じ日の日記の最後には、「話を聞いてもらってよかった。人に優しく」ともあった。小学校からの友人で部活動も同じだった女子生徒に、悩みを聞いてもらっていたようだ。