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ハワード・弘・蠣田さん:
「私たちは山の方へ逃げました。人々の大群が市内の中心部から山の方へ向かっていて、みんなひどいケガをしていました。ひどい火傷をして、体から皮膚が垂れ下がっていました。中にはお腹から内臓が飛び出したままそれを抱えて逃げている人もいて、道路にはたくさんの遺体がありました。そして多くの人が、水を求めてさまよっていたのです。その中をどれくらいの時間歩いたかは分かりません。永遠に続くような気さえしました。その虐殺の光景は、その後何年にもわたって私の心に残り続けました」

火傷をし、皮膚が垂れ下がったまま逃げる人々(全米日系人博物館特別展「きのこ雲の下で」より)

数日後、避難先から戻ってくると祖父母宅があった一帯は全てが燃え尽き、辺りには遺体を火葬する臭いが漂っていた。焼け野原となった町でトタンなどをかき集めて家を作り暮らしたが、しばらくひどい下痢の症状が続き、髪の毛も抜け落ちてしまったという。

原爆投下後の広島(出典:National Archives at College Park)
命は助かったが、髪は抜け下痢の症状に苦しんだ(右から蠣田さん、祖父、兄)

アメリカへ戻っても続く被爆の影響

1948年、蠣田さんは両親の待つアメリカへ戻ったが、その後も心に負った傷に苦しめられることとなった。

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ハワード・弘・蠣田さん:
「アメリカへ戻った後も、悪夢にうなされました。母によると、私はよく夜中に起きて泣き叫んでいたそうです。また、スパゲティやレアの肉など、あの時の光景を思い出させる赤い色の食べ物は口に出来ませんでした」

在米被爆者たちは、後遺症と向き合う一方、“原爆を落とした国”に暮らすことでの苦難も多かった。「原爆を使ったから戦争が早く終わり、多くのアメリカ兵の命が救われた」と原爆投下を正当化する声も聞かれた。このため、自身の過酷な経験を誰にも話せず、口を閉ざす被爆者も多かったという。蠣田さんは大学生だった25歳の時、妻となるアイリーンさんに結婚を申し込む。その時、全てを打ち明けた。

ハワード・弘・蠣田さん:
「彼女は私が日本で育ち、広島にいたことは知っていましたが、(そこで何があったかは)詳しくは知りませんでした。だから結婚を決めた時に、『自分は広島で被爆したから、放射能のせいで長生きできないかもしれない。子孫にも影響があるかもしれない』と全てを話したのです。まだ若かったからあまり気にしていなかったのか、彼女は受け入れてくれました。でも、その後授かった長男を5歳の時にガンで亡くしたのです。医師は『おそらく放射能とは関係ない』と言いましたが、私は気持ちのどこかで私が被爆したせいなのではないかと考えてしまいます・・」