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墓に行って死ぬかと思った話…14年前、秋川雅史『千の風になって』は日本人の“墓参り観”をどう変えた?

「私のお墓の前で泣かないでください そこに私はいません」

2020/08/18
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 正直墓までの道のりもつらい。霊園は山の上。ぐねぐねに曲がった山道を送迎バスに揺られて行かねばならず、毎回酔うのである。

 ところが、私の母は80という高齢ながら、なにがあろうと意地でも月一回行こうとする。さすがに緊急事態宣言が出た時期は自粛していたが、お盆休みスタート後の9日、日傘に帽子にサングラスにマスクという重装備で、ひぃひぃと墓に赴く母の姿は鬼気迫るものがあった。一家全員、誰も運転免許を所有していないのも悩みどころである。

 現代のように一般人が墓を建てるというのは案外歴史が浅く、誰もがお墓を自由に、しかも生前のうちに建てる流れは、高度成長期ごろから始まったという。私の親(昭和10年代生まれ)はまさに「土地が一番の財産、マイホームと墓を持つのがステイタス世代」。墓参りに対しての並々ならぬ思い入れがあるのは、そんな時代背景もあるのかもしれない。

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※写真はイメージです ©iStock.com

代行、リモート、散骨……墓参りの「ねばならない」がなくなっていく

 しかし時代は変わり、高齢化社会になり、独身が増え、車を所有しない人が増え……となってきて、コロナ禍や猛暑を体験した私たち。墓に対して求められる条件も変わってくるのも当然の流れ。墓参りに限界を感じ永代供養に切り替えた人もいらっしゃるだろうし、家に置くオブジェタイプの墓や、遺骨をアクセサリーにする「手許供養」も注目されてくるだろう。

 私は散骨に興味津々である。日本でも意外にポピュラーなようで、葬儀の仕事に長く関わっている友人に「エーゲ海に撒いてほしいなあ」と冗談で言ったら「できますよー」とアッサリ言われてびっくりした。これまで死をそんなに近くに感じていなかったので、知らないことが多いなあと痛感した。ああ、メメントモリ……。

 普通に出来るはずだったことが困難になり、何気なく続けていた伝統や型を外す必要に迫られたこの夏。慣習や罪悪感、「ねばならない」という固定観念が取り払われ、選択肢が増えていくと思えばいいのかもしれない。1カ月後にはお彼岸だ。代行もよし、リモートもよし。全く違うタイプのサービスが生まれる可能性もおおいにある。

 コロナの状況がどうなっているかまだ見えないが、生きている者の生活が優先。どんな方法でお参りしても、気持ちは伝わるから大丈夫。なんといっても、千というスゴイ数の風で見守ってくれているのだから。こちらの想いに気づいてくれないはずはない。改めてそう思った、今年のお盆であった。

墓に行って死ぬかと思った話…14年前、秋川雅史『千の風になって』は日本人の“墓参り観”をどう変えた?

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