いまから40年前のきょう、1977(昭和52)年9月5日、プロ野球・巨人の王貞治(当時37歳)が時の首相・福田赳夫より国民栄誉賞を授与された。王はその2日前、後楽園球場での対ヤクルト戦で、米メジャーリーグのハンク・アーロンのホームラン本数を抜く、通算756号の「世界記録」を達成していた。福田内閣はこれに先立ち、8月30日に国民栄誉賞を創設、王が受賞第1号となった。

 前年の76年に、ベーブ・ルースの記録714本を2本上回ってシーズンを終えた王は、77年8月に入りペースを上げ、8月31日の対大洋(現DeNA)戦で775号ホーマーを放ち、アーロンの記録に並ぶ。このころには巨人戦のテレビ視聴率は40%前後に達し、王がいつ記録を達成するのか、国民的な関心事となっていた。

 タイ記録に達したあと、2試合続けてホームランが出なかった。しかし9月3日の対ヤクルト戦の3回裏、同試合2回目の打席に立った王は、フルカウントからの6球目、ピッチャーの鈴木康二朗が放ったシュートをライトスタンドへと叩き込んだ。普段はホームランを打っても淡々としていた王だが、このときは仲間から事前に「記録をつくったときくらいは……」と言われていたのを守って、打った瞬間に万歳をし、ゆっくりとベースを周ると、ホームを踏んだ。

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国民栄誉賞表彰式にて ©文藝春秋

 試合後、マウンドでのあいさつを終え、ベンチ裏に戻った王の口をついて出たのは「これであしたから自分の打撃に集中できる」との言葉だった(王貞治『もっと遠くへ 私の履歴書』日本経済新聞出版社)。しかしその後もフィーバーは続き、シーズンオフも園遊会への招待など行事があいつぐ。そのなかで王は野球に打ち込む時間を削られ、当人も気づかないうちに、集中力が削がれ、達成感が心の奥底に忍び寄っていった。結局、彼は1980年、記録達成から3年で現役を引退する。栄光の頂点に立ったことが、かえって引退を早めたともいえる。後年、ノンフィクション作家の鈴木洋史の取材に応じた王は、「756号は自分の野球人生をスポイルした」と漏らしたという(『Number PLUS 20世紀スポーツ最強伝説1 スーパースターとその時代。』)。

©文藝春秋

 日米の球界で数々の記録を打ち立てたイチローが、たびたび国民栄誉賞を打診されながらも固辞を続けているのも、こうしたスポイルを恐れてであろう。それでも王が引退までに伸ばしたホームラン記録868本は、いまにいたるまで不滅の大記録であることは間違いない。