〈首相と官房長官がしなければならないことですか? 拉致被害者を救出するために、何を失うことを許容するのか、具体的に申し上げれば、特殊部隊員何名の命と引き替えにするのかを決めていただければ〉
これは自衛隊特殊部隊による拉致被害者の奪還をテーマにしたドキュメント・ノベル『邦人奪還:自衛隊特殊部隊が動くとき』の一節だ。元自衛隊特殊部隊員の伊藤祐靖(すけやす)氏が、現場の作戦行動の詳細から、首相官邸や霞が関など政府の動きまでを精緻にシミュレーションした同書がいま、話題になっている。
「現場のリアルを伝えることにこだわった」伊藤氏が同書を執筆したきっかけは、「能登半島沖不審船事件」(1999年)にあるという。海上自衛隊が北朝鮮工作母船と遭遇したその日、現場では一体何が起きていたのか。伊藤氏が“隊員全滅”をも覚悟したという壮絶な記憶を明かした。(全2回の2回目/前編から続く)
◆◆◆
1999年3月23日、伊藤氏が航海長を務める護衛艦「みょうこう」は、富山湾で北朝鮮工作員を乗せた不審船を発見。黒煙を吹き出しながら猛スピードで北上する不審船に対し、ともに追尾していた海上保安庁の巡視船は威嚇射撃を行った後、燃料不足を理由に帰投してしまった。そして、海上自衛隊創設以来初の実戦命令である「海上警備行動」が発令。北朝鮮工作員との交戦を前に、艦内はかつてない緊張に包まれた――。
“訓練ではない射撃”が始まった
艦長の全身から、緊張感があふれ出ていた。それはすぐに、緊張ではなく、恐怖に近い不安だということがわかった。艦長はとてつもない不安のまっただ中にいる。そして、これだけの人数に囲まれているというのに孤独を感じているのだとも思った。
恐怖に近い不安と孤独の中で艦長は、腕を組み、まっすぐ前を見据えていた。わずかに上下する肩が呼吸の荒さを示し、艦長のドクンドクンという心臓の鼓動まで聞こえるような気がした。そのまっすぐに前を見据える目には、保身も私心も邪心もなく、ただひたすらに任務を全うしようとする強く熱いものがあった。
自衛隊が抱える憲法との矛盾、パンドラの箱だかなんだか知らないが、俺たちは今ここで生きている。誰が何と言おうと、たった今、我々は確実に必要とされている。政府が海上警備行動を発令したのが何よりの証拠だ。憲法云々とは別に、今は俺たちにしかできないことを全力でするだけの話だ。今までの時間はこのための準備期間だったんだ。
艦長は、目をカッと見開くと、押し殺したような低い声で戦闘号令を発した。
「戦闘、右砲戦! 同航のエコー〈E〉目標!」(このときは工作船をEと呼んだ)
いよいよ訓練ではない射撃が開始されてしまった。
「頼むから、当たっちまう前に止まってくれ!」
艦長の戦闘号令に従い艦内は、驚くほどスムーズに、滞りなく、水が流れるように、何から何までうまくいった。これこそが訓練のたまものである。
初弾は依然として34ノットで進む工作母船の後方200メートルに着弾させたが、工作母船に減速する兆候はまったく見られなかった。前方200、後方100、前方100と弾着点を工作母船に近づけていった。工作母船を木っ端みじんにしてしまうギリギリの距離まで弾着点を近づけて、何十発も警告射撃を行った。だが、工作母船は減速の兆候をまったく見せなかった。
私の心の中の声は、「止まれ、こん外道が!」から、あれだけの至近弾を食らっても止まらない彼らに対する尊敬の念にも近い「お前ら人間じゃねえ……」になり、「止まってくれ! 頼むから、当たっちまう前に止まってくれ!」に変わっていった。