いま、自衛隊特殊部隊による拉致被害者の奪還をテーマに、日本の防衛戦略に警鐘を鳴らす1冊が注目を集めている。元海自「特別警備隊」隊員の伊藤祐靖(すけやす)氏が放つドキュメント・ノベル、『邦人奪還:自衛隊特殊部隊が動くとき』だ。

 伊藤氏は自衛隊時代に、「恥じて、一生抱えて生きていく」といまなお口にする事件を経験している。同書執筆のきっかけともなったその出来事とは、海上自衛隊創設以来初の“実戦命令”がなされた「能登半島沖不審船事件」(1999年)だ。自衛隊史に残るその日、現場では何が起きていたのか。伊藤氏が北朝鮮工作母船との“生々しい攻防”の記憶を振り返った。(全2回の1回目/後編に続く

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北朝鮮工作母船の残像

 1999年3月24日6時7分、護衛艦「みょうこう」の艦橋にいた私は航海長として、「面舵一杯(おもかじいっぱい)」を下令した。作戦中止命令が出たからである。

 日本政府は、日本人を拉致している真っ最中の可能性が極めて高い北朝鮮工作母船の追跡を断念した。北朝鮮清津(チョンジン)市に向かって猛スピードで走り去る工作母船は、あっという間に日本海の波間に消えた。

 私の網膜には今もその船影が残っている。それは、死ぬまで消えることはない。我々は、すんでのところで北朝鮮工作母船を取り逃がし、目の前で日本人を連れ去られてしまったのかもしれないのだ。

 私にとっての「能登半島沖不審船事案」は、この2日前の3月22日、緊急出港が下令されたことを知らせる一本の電話から始まった。

護衛艦「みょうこう」 ©時事通信社

「秘のグレードが高すぎて、まだ、言えないんだ」

「航海長ですか、当直士官です。緊急出港が下令されました。直ちに、艦に帰ってきてください」

 ようやく長い航海から母港に帰ったというのに、という落胆が強かった。もちろんそんな気持ちはおくびにも出さずに艦へ戻り、その足で艦長室へ行った。艦長に行き先を聞くためである。

 海の上には道路もなければ、道路標識もない。だから、行き先が決まったからといって、すぐに行けるわけではない。出港前に進むべき航路を決定し、それを海図(チャート)に記入する必要がある。そして、その航路を決定するのは航海長の仕事だ。だから、私はまず行き先が知りたかったのである。

 ノックをして、艦長室の扉を少し開け、「航海長、入ります」と言った。

「入れ」という艦長の声が聞こえた。

 私は敬礼をしてから、すぐに本題に入った。

「航海長、ただ今帰りました。艦長、行き先はどちらでしょうか」

「ううん。それがな、まだ言えないんだ」

 地名を待っていた私の頭の中が、一瞬、白くなった。

「はっ? 言えない? 言っていただかないと航路が引けません。航路が引けないと出港できません」