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「やりがい搾取」という構造

 こうした潮流のなかで割を食うのが「実質のある仕事」をするひとたちだ。メーカーで言えば「実際にモノを製造し、運送し、修理し、保守している人びと」である。企業や公共部門が人員削減や労働強化をしようとする際にその矛先が向けられるのは、きまって彼らだ。

 そうした仕打ちに抗おうとして、バスや地下鉄の運転手がストライキを行うとどうなるか。右翼ポピュリズムは「公共の交通機関が麻痺したではないか」などといってストを批判するだろう。著者はそれを、彼らがいないと困るほど、重要な仕事を担っていることの証明になっていると指摘する。

 このように「実質のある仕事」は必要な仕事である。しかし世間や企業は、それを担うひとたちが経済的に恵まれることを許そうとしない。ここでは「代わりはいくらでもいる」という、見下しと脅迫が働いているだろう。これは「やりがい搾取」の構造にも置き換えられる話だ。

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 このように『ブルシット・ジョブ』は、コンテンツ系の組織をむしばむ病理についての示唆にも富んでいる。「やりがい搾取」と、興味を持たないひとたちによる支配である。なにしろ、やりがいがあるのだから、それをやりたいという人たちは常にいる。彼らを搾取することによって、数多の「クソどうでもいい仕事」をするひとたちが養われる。そこでは、作られるものに興味を持たない者の承認を必要とする不幸も生まれる。

管理部門の肥大化は「クソどうでもいい仕事」を増やす

 それはどういうことか。

 本書に、紅茶工場の寓話的なエピソードがある。その工場にはそれを稼働する労働者たちと、社長と人事のふたりのホワイトカラーしかいなかった。労働者たちが勝手に機械をいじくり回しているうちに生産性が向上し、収益も増大していくと、社長は利益を労働者に還元するのではなく、ホワイトカラーを増やすのに使う。ところがそうして雇われた彼らはとくにやることもなく、ただ会議をし、議論し、報告書を書いて過ごすのだった。

 こうしたことを現代日本で筆者も間近にみた。ベンチャー企業は、なにかを作りたい社長と、実際にそれを作る少数の社員で始まる。最初期には社長自らが経理、総務、人事の仕事をこなすが、次第にそれぞれを採用できるようになる。

 そうこうするうち、それまで総務だったおじさんが経営企画本部長などと名乗るようになり、そんなふうにして管理部門は肥大化していく。そこでは「クソどうでもいい仕事」も増え、同時に管理部門が幅を利かす組織になっていった。