ハリウッドで「クソどうでもいい仕事」がいかにして増えていったか
コンテンツ系の会社だとここで第一の問題が起きる。管理部門は「クソどうでもいい仕事」を増やす一方で、習性として、ものを作るコストを抑えようとする。このとき彼らは、ものを作るひとを「好きでやっているのだから給料は安くていい」者だとみなす。
おまけにこうした業種の特性で、外からは面白そうなことをやっているように見えるため、ただでもいいので働きたいという未経験者などがやってくる。すると「代わりはいくらでもいる」との錯覚に陥る。「クソどうでもいい仕事」と「やりがい搾取」がおりなすマリアージュである。
そして第二の問題である。管理部門が肥大化し、彼らが意思決定権を握ると、自社がつくるものに興味を持たない者の承認を必要とする組織になる。本書では、著者のもとに寄せられた証言などから、ハリウッドで「クソどうでもいい仕事」がいかにして増えていったかが説明されている。
かつて米国の映画会社は、「本能的直感があり、リスクを負い、映画制作の本質にかんして独特のセンスをもちあわせた」ひとりの人間が指揮していた。そして映画を作るのに必要な見識を持つ者を雇っていた。
それが80年代、コカ・コーラがコロンビア・ピクチャーズを買収した頃から業界全体が複雑化して、ろくに映画を見もしない者たちが映画制作に関わるようになる。ファイナンスなどの知識はあるが肝心の映画の知識はなく、それでいて「エグゼクティブほにゃらら」を名乗るようなひとたちだ。なまじ偉い地位にいるために、そのひとたちの了承が必要となり、そのための「クソどうでもいい仕事」が生まれていくのだった。
社会は労働の歪みと向き合わなければならなくなった
これはどんな業界の組織でも起こりうる話だろう。SNSでは出版社の幻冬舎やその社長・見城徹を悪く言うひとは多いが、見城徹は少なくとも本が好きなのは間違いない。ほんとうに酷い会社とは、自社の作品やサービスに興味のない者が支配する会社である。何の知識も興味も持たない者を説得すること自体が「クソどうでもいい仕事」で、そのための資料作成などの徒労を重ねることになる。おまけにそこでは「実質のある仕事」をするひとたちへの関心もないのだ。
以上は『ブルシット・ジョブ』をとりわけコンテンツ産業に押し広げていっての話である。本書は、何の役にも立たない仕事が高給で、必要とされる仕事ほど低賃金、こうした現代の不条理を書く。今まではそれを自己責任程度にしか考えてこなかったが、コロナ禍に見舞われた現在、東京女子医科大学の看護師400人が退職を申し出た事態にみるように、社会は労働の歪みと向き合わなければならなくなったのである。極めて今日的な書物といえよう。