宇和島城の最寄り駅、JR宇和島駅。駅前に闘牛の銅像があるのは、現在でも闘牛が開催されているからです。諸説ありますが、17世紀後半に宇和海を漂流していたオランダ船を救助し、その際にお礼として贈られた2頭の牛が格闘をはじめたことが起源といわれます。安政3年(1856)の文書には、庶民が闘牛に熱中していたことが記されているほど。宇和海に接する、宇和島らしいエピソードです。
宇和島城は、宇和海に面した海城です。堀の多くは明治以降に埋め立てられてしまいましたが、元禄16年(1703)に描かれた「宇和島城城下絵図」などの古絵図を見ると、かつては2辺が宇和海に、3辺が堀に囲まれていたのがわかります。
方向感覚が狂う、五角形の設計
四角形のようでいて実は五角形の縄張(設計)が、宇和島城の大きな特徴です。築いたのは、文禄4年(1594)に宇和郡7万石を拝領した藤堂高虎。のちに今治城(愛媛県今治市)や伊賀上野城(三重県伊賀市)を築き、大坂城(大阪府大阪市)、江戸城(東京都千代田区)などを手がける築城の名手として知られます。
五角形の縄張のせいか、宇和島城下を歩いていると方向感覚を狂わされます。これぞ、高虎の狙いなのかもしれません。
地形を利用して攻めにくい縄張を完成させたとも、地形上どうしても五角形にせざるをえなかったともいわれますが、いずれにしても、さすがは高虎と唸らされます。海に面しているのは、秀吉の2度目の朝鮮出兵(慶長の役)の拠点のひとつとするためと考えられそうです。
築城名人・藤堂高虎の初期の傑作
宇和島城は、築城名人として名を馳せた高虎の初期の傑作といえます。後に今治城で水堀から立ち上がる石垣を実現する高虎ですが、宇和島城の築城時にはまだその技術がなかったようで、地盤の上に積まれています。隅部の強度を高めるべく石材を交互に積み上げる算木積みも、まだ未成熟。
しかし、築造時期を考慮するとこれほどの高さの石垣は珍しく、先駆的な技術を持っていたといえそうです。高虎時代のものと思われる石垣は、本丸の北西側にある藤兵衛丸や本丸側面に残ります。