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海を睨む現存天守は「戦闘力ゼロ」!? “築城の名手”が手掛けた宇和島城の秘密

2020/09/09

 宇和島伊達家が建てた天守の証が、唐破風に用いられた木材に刻まれた、宇和島伊達家の3種類の家紋(九曜紋、竹に雀紋、竪三引両紋)です。九曜紋は細川家の家紋で、政宗が気に入り所望したもの。竪三引両紋は、源頼朝から拝領した幕紋に由来する伊達家のいちばん古い紋です。仙台伊達家の分家ではなく別家であるため、伊達家おなじみの竹に雀紋は、仙台笹とは微妙に異なる宇和島笹です。

天守入り口で見られる3つの家紋。

宇和海を介して歴史と文化が育まれた地

 8代・宗城は、明治維新期に外交手腕を見せた藩主として知られます。7万石の小藩ながら、藩政改革に取り組み功績を残しました。富国強兵策も、そのひとつ。軍備を近代化して海防強化に力を注ぎ、攘夷態勢を固めるためオランダ流砲術を定着させていました。身分や出自を問わない人材登用も行いました。城下にある「高野長英の居住地跡」は、脱獄囚として逃亡生活を送っていた高野長英が、宗城の庇護を受けて隠れた住処の跡地。長英は蘭学書の翻訳、藩兵への洋式の訓練、砲台の設計に関わったとされます。

高野長英の居住地跡。
幕末に築かれた、樺崎砲台跡。

 宇和海に面する地ですから、この頃には海岸防備のため砲台が築造されました。嘉永3年(1850)には、長英の設計による御荘久良砲台が完成。安政2年(1855)12月には西洋の技術を取り入れた樺崎砲台がつくられ、元治元年(1864)には宇和島湾の対面にある戎山にも砲台が築かれています。

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 宇和海を通じた交易や交流があり、独自の文化も育まれた宇和島。薩摩藩との繋がりも強く、西郷隆盛が訪れた歴史もあります。時代ごとの歴史が息づき、文化が感じられる地です。

宇和島城の天守最上階から望む、宇和海。

撮影=萩原さちこ

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 宇和島城をめぐる旅の模様は、「文藝春秋」9月号の連載「一城一食」に掲載しています。

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