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 城下町は、城東に商人・職人町、南部に武家町、その外縁部に寺院を配置。流れを付け替えた2つの河川(辰野川・神田川)が外堀となり、城下町を守っていました。高虎の時代には、現在の搦手口(裏口)が大手口だったようです。搦手口にある上り立ち門は、武家屋敷の正門とされる薬医門。現存としては最大規模で、高虎時代に創建された可能性もある貴重な遺構です。

搦手口にある上り立ち門。

戦闘力のない、日本でいちばん平和な天守

 防御性を感じる縄張に対して、現存する天守は戦闘力が皆無です。宇和島城の天守は、江戸時代から残る全国の12棟の天守のうち、もっとも穏やかで平和な天守といえます。現存する天守が建造されたのは、寛文6年(1666)頃のこと。4代将軍・徳川家綱の統治下で、戦乱の世から泰平の世へと移り変わっていますから、戦いを想定していないのです。

 天守の外観を撮影しようとすると、立体感がないことに気づくはずです。現存する天守特有の、破風と破風が複雑に重なり合う造形美が感じられません。実は、宇和島城天守の破風は外壁に取り付けられた装飾にすぎないのです。

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 姫路城や松本城などの天守は破風の内部を「破風の間」という攻撃の空間として活用していますが、宇和島城天守にはそれがありません。壁面に開けられた射撃用の「狭間」や床面を張り出させた「石落とし」も皆無。壁面は余計なしかけがなく、すっきりとしています。

天守南面。狭間や石落としがない。
天守内部。狭間や石落としがなく壁面がすっきりしている。
天守入り口。屋根には大きな唐破風がつく。

 歓迎ムードが漂う天守入口にも、違和感を覚えます。屋敷の玄関のような、やたらと広々とした空間になっています。屋根を見上げれば、あしらわれているのは寺社建築が発祥の唐破風。開放的かつ格式を重んじた玄関からは、侵入者を迎撃する意図が感じられません。

宇和島伊達家の威厳の証

 現存する天守を建造したのは、宇和島伊達家2代の伊達宗利です。慶長19年(1614)、伊達政宗の庶長子・伊達秀宗が10万石を与えられて宇和島藩が成立。秀宗は幼少期に人質として豊臣秀吉のもとに差し出され、秀吉のもとで元服し、秀吉の没後は徳川方の人質となりました。庶長子であったことから、本家は政宗の正室の子・忠宗が後継。大坂の陣後、徳川秀忠により伊予宇和島10万石が与えられ、国持大名格となりました。