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ツイッター社長に聞いてみよう

中央線で居眠りする“サボり営業マン”がリクルートのトップ営業になって、MBA留学するまで

中央線で居眠りする“サボり営業マン”がリクルートのトップ営業になって、MBA留学するまで

ツイッター社長に30の質問 #15

note

 ただそういうときに限って、不思議なことにいろいろな企画案が思いつくことがありました。企画書づくりは得意でしたね。そういうときに思いついた企画はお客さまによく通りましたし、社内コンテストでは賞をもらったこともありました。

「人生を変えるならこれしかない」

 ある意味“自堕落な”自分を変えたのがMBAの存在でした。

 

 社内にMBA留学募集の張り紙があったんですね。「人生を変えるならこれしかない」と思ったぼくは、その日から仕事への向き合い方を変えました。MBA の枠はわずか2人。選ばれるためにはもちろん優秀でなければいけない。相変わらず営業の仕事はしんどかったのですが、「MBAをとるためだ」と思えば不思議とがんばれました。

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 意識したのは、とにかく結果を出すこと。営業成績でトップクラスを維持し続けました。社内で評価されるパターンは2つあります。足で数字を稼ぐ人と、頭脳を使って結果を出す人です。ぼくはどちらかというと後者でした。

「住宅情報」に関する企画――たとえば不動産価格は、地域別に変動するわけですよね。その価格を前月と比較する資料をつくって、お客さんが値付けするときに役立つようにしました。ぼくはそうやって「あの店長ならこういうデータが欲しいだろうな」とつねに考えながら営業をしていました。会社のツールでデータ分析することがすごく好きで、不動産会社さんからもそこを評価してもらっていたと思います。

 

 そして嬉しいことにぼくはMBA枠に選ばれました。情報誌の営業から留学の枠を勝ち取ったのは、ぼくが最初だったと記憶しています。いわゆる技術系の部署の人が留学対象になることが多かったですから。文系バリバリな営業が行くことは珍しかったのです。

 ぼくは新人のときから、文句ばっかり言っていました。決して模範的な社員ではなかった。ただ人事としては「こういう社員も環境を変えてやれば何か変わるのかな」と思ったのかもしれません。リクルート事件のあと、会社が大きな負債を抱えていたど真ん中の時期に留学させていただけたのは、もう本当に感謝でしかないですね。

“アポなし”でニューヨーク突撃!

 留学の枠に入れても、受験に合格しなければ行くことはできません。