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「壊れていったのは自分の責任」デビュー25周年の華原朋美が語った小室哲哉への“感謝”

「彼の作った歌を歌うために一所懸命レッスンをしました」

2020/09/08
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 2014年には、カバーアルバム『MEMORIES』シリーズ2作が好評で、日本レコード大賞の企画賞を受賞、ライブ活動も精力的に行なうようになった。40歳になったこの年、作詞家の阿木燿子との対談で、《本当の幸せをつかみにいかなきゃいけないと思います》と口にしたところ、阿木から《結婚・出産は、華原さんの中で大きなテーマとしてありますか》と訊かれた。これに対する華原の答えは、《もちろんです。常にホルモンバランスを整えたり、体を冷やさない行為に勤(いそ)しんでいます。だけど、肝心の相手がいないんです》というものであった(※6)。果たしてそれから5年が経った昨年、彼女は一般男性とのあいだに第一子を儲ける。12月には出産後初の公の場として、都内のホテルでディナーショーを開催、11曲を熱唱した。

1999年撮影 ©文藝春秋

 デビュー20周年を迎えた2015年、華原は小室に作曲を依頼して復帰後初のオリジナルシングル「はじまりのうたが聴こえる」をリリースした。同年、彼女の著書で対談した小室は、出会ったころに歌手“華原朋美”にどういう輝きを見出したのかと問われ、《やっぱり声そのものですね。なかなかない声質です。倍音をたくさん含んでるんですよ》と答え、さらに歌唱についても詞を《噛まずに滑舌よく、さらに短い音符であっても、発声したときに声にちゃんと息の音も混ざる。そういうところが、たぶん長けてたと思うんです。(中略)だから、曲を書くときに制約を考えなくていい。(中略)だからこそ、『I'm proud』とか『LOVE BRANCE』などといった曲が生まれたんだと思うんです》と語った(※1)。いずれの曲も、リアルタイムで愛聴していた世代によっていまなおカラオケで支持されている。彼女もまた、べつのところで、《幼かった私は彼にどれほど迷惑をかけたろう。壊れていったのは自分の責任。彼の作った歌を歌うために一所懸命レッスンをして、4オクターブ半の声を出せるようになりました。今はただ感謝しているだけです》と、あらためて小室について振り返った(※5)。やはり2人は出会うべくして出会ったのだろう。5年にも満たない交際であったが、そこで2人がつくりあげたものは、いずれにとってもなお財産となっていることは間違いない。

※1 華原朋美『華原朋美を生きる。』(集英社、2015年)
※2 華原朋美『~未来を信じて~』(ワニブックス、2000年)
※3 『FRIDAY』1995年6月23日号
※4 『スコラ』1995年9月28日号
※5 『婦人公論』2013年3月22日号
※6 『サンデー毎日』2014年12月21日号

「壊れていったのは自分の責任」デビュー25周年の華原朋美が語った小室哲哉への“感謝”

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