たとえば、外交政策の安定。日米豪印を中心とした安全保障面での協力が進み、2020年代に続く国際秩序のひとつの流れに貢献しました。また、昨年のG20でも議長国として安倍首相は先進国とそれ以外の色々な国をまとめあげ、日本の国際的な存在感は高まりました。
さらに、日本国周辺では2010年代に深まった厳しい安全保障環境に腰を据えた対応ができました。2010年には、尖閣諸島付近で中国漁船が日本の海上保安庁の巡視船に船体を衝突させ日中間に緊張が走る事件が起こりました。また、2011年からは北朝鮮の金正恩体制が発足し、以来、金正日時代の約10倍のペースで弾道ミサイルが発射されています。
このように悪化する安保環境に対応して、安倍政権では2013年にアメリカを見本にした国家安全保障会議(NSC)が作られました。総理大臣と官房長官、外務大臣、防衛大臣が中心となり、国家安全保障の重要事項が迅速かつ省庁横断的に決定されるようになったのです。
しかし他方で、この周辺環境に対応するために、妥協をした面も多かった。とりわけ、2015年に集団的自衛権の限定行使をめざす安全保障関連法案を可決させるために払った犠牲は大きく、それが政権のその後の行く末にとって、大きな分かれ道になっていきました。
自ら“墓穴”を掘った安倍政権
安倍内閣の政権としての大目標は、国のあり方を決める憲法の改正でした。安倍首相と同じ保守の政治理念を持ち、憲法改正を長年求めてきた人たちにすれば、政権基盤も確かで実行力もある第2次安倍内閣は、まさに切り札的存在でした。とりわけ2016年以降、衆参両院で3分の2の多数を得てからは、安倍政権は憲法改正へとまっしぐらに進むだろう、と改憲派は大いに期待しました。
しかし、政権後半期、安全保障環境が一段と激化する中で、これまでの憲法や安保関連法では対応できない事態が想定されるようになると、当然、憲法改正に正面から取り組むことによってしか、実現できないテーマが増えてきたのですが、すでにそれ以前に安保関連法を通すために、憲法解釈の変更という手段をとって対応したため、本来的な「改憲の必要性」という大義が薄弱になってしまいました。いわば、中途半端に「憲法問題」に手をつけたことが、その後の憲法改正の「王道」を閉ざす結果になったといえるでしょう。