リバースプロジェクト立ち上げは「人類が地球に生き残るために」
8年前の番組ではまた、伊勢谷の仕事について寛斎が檄を飛ばす一幕もあった。伊勢谷はこのときすでに俳優だけでなく映画監督や実業家など幅広く活動していたが、寛斎は「勝負の場が低すぎる」と、なぜ俳優一本で勝負しないかと迫ったのだ。これに対し伊勢谷は、自分のいまのモチベーションは、社会貢献のため立ち上げた企業「リバースプロジェクト」での活動にあると返した。
リバースプロジェクトを立ち上げたのは、伊勢谷が初監督作品『カクト』(2002年)を公開後、映画監督はあくまで手段だと気づき、自分の目的はどこにあるのかと自問自答していったところ、「人類が地球に生き残るために」という言葉が頭に浮かんだのが発端だった。ここから彼は、サスティナビリティー(持続可能性)のある衣食住関連の製品を提供する活動を皮切りに、さまざまな企業や団体、個人と連携しながら、環境・貧困・過疎などの社会課題に対して具体的なアクションを起こしていった(※3、※4)。
“忠告”は自身の苦い経験から
伊勢谷としては、リバースプロジェクトの活動には自信を持っていたからこそ、寛斎の追及にもこれを挙げることでかわそうとしたのだろう。そもそも寛斎だって、本業のファッションデザインにとどまらず、自ら会社を経営しながら「スーパーショー」と名づけたイベントのプロデュース・演出のほか、ときには映画出演やテレビの司会を務めたりと、その活動は伊勢谷に負けず多岐におよんだ。もっとも、寛斎の経歴を知れば、「何か一本で勝負する」とは彼自身の苦い体験から出たものだということがわかる。
寛斎は1971年、ロンドンで日本人としては初めてショーを開いた。そこで彼はファッションショーの領域を超え、歌舞伎の引き抜き(役者の衣装を観客の眼前で一瞬にして変化させる技法)などの演出法を採り入れた派手なステージで、観客の度肝を抜く。これによって国際的に注目された彼は、調子に乗り、世間の注目を惹こうとするあまり、「30歳になったらデザイナーをやめる」とうそぶいたりもした(※5)。だが、実際に30歳を迎えた1974年、パリで開催したショーが、演出も作品も準備不足がたたり、「服のデザインの美しさのみで勝負すべきだ」と酷評されてしまう。さらに石油危機の影響もあり、アトリエの経営も行き詰まった。信頼していたスタッフたちにも去られ、すっかり弱気になった彼は死ぬことさえ考えたという。それでも「もう一度、私に未来をください」と神様に祈るような気持ちになるにいたって、心を入れ替えて再起を期す(※6)。そのために大規模なショーをその後しばらく封印し、自分でつくった服を持参して国内外を営業に飛び回るなど地道な仕事に専念した。1980年代以降、ショーを再開するのだが、そこでは服のデザインはもちろん、資金集めから関係者との折衝まですべて自ら一手に担うことになる。