『この世の春』上(宮部みゆき 著)

 宮部みゆきは、今年、作家生活三〇周年を迎える。

 著者の時代小説は、捕物、怪談、人情を柱にしているが、これまでで最もおぞましい事件を描きつつ三つの要素を織り込んだ本書は、まさに集大成的な作品で、メモリアルイヤーに相応しい傑作となっている。

 北見藩藩主の北見重興は、新参の伊東成孝に藩政を任せ切りにしており、「病重篤」を理由に代々の家老衆によって隠居させられる(いわゆる「押込(おしこめ)」)。重興は藩主の別邸・五香苑の座敷牢に幽閉され、佞臣(ねいしん)の成孝は切腹した。

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 実は、この「押込」には裏があった。重興は記憶が途切れたり、不可解な言動をしたりすることがあり、その原因が悪霊にあると考えた成孝は、真相を調べるため重興に近付いたようなのだ。しかも悪霊には、「御霊繰(みたまくり)」なる謎の言葉が関係しているらしい。作事方の家に生まれた各務(かがみ)多紀は、運命の糸に導かれるように事件に巻き込まれ、若き医師の白田登、従弟の田島半十郎、元江戸家老の石野織部らと、重興を救うため奔走することになる。

 最新の医学を学んだ理知的な登は、重興は心の病と考えて治療を続けるが、五香苑では超自然現象としか思えない怪異が続く。著者は、不可解な謎を合理的に解決することも、そのまま怪談にすることもあるだけに、物語がどちらに転ぶか分からず、それが先を読みにくくしている。次第に、重興の心に傷を負わせた陰惨な過去の因縁が浮かび上がってくるので、読者は息苦しいまでのサスペンスに圧倒されるのではないか。

 現代社会では、政治の無策が格差を生んだのに、貧困は自己責任との主張が広まり、それを政治が利用するかのように対策が遅れる負のスパイラルが起きている。一見すると正しく思える主張の中にある欺瞞と偏見を暴く本書の真相は、グロテスクな日本の現状の戯画になっているだけに、より恐ろしく感じられた。

 やがて今回の事件は、誰かが良心に従っていれば、早い段階で芽を摘むことができたことが判明する。ただ生活や将来を考えると、正義感や善意だけでは動けないのが人間である。それゆえに読者は、現実にも直面し得る難しい決断を迫られた登場人物たちを見て、自分ならどうするかを考えずにはいられないだろう。

 本書は残酷だが、顔に残る火傷の跡に負けず前向きなお鈴、貧しくもしたたかな金一など脇を固める少年少女が暗さを相対化しており、読後感は悪くない。逆境に抗(あらが)い懸命に生きる人々を描く本書は、社会の闇を光に変える方法を示唆してくれる希望の一冊なのだ。

みやべみゆき/1960年東京生まれ。93年『火車』で山本周五郎賞、99年『理由』で直木賞、2001年『模倣犯』で毎日出版文化賞特別賞、02年には司馬遼太郎賞、芸術選奨文部科学大臣賞(文学部門)、07年『名もなき毒』で吉川英治文学賞を受賞。近著に『三鬼』など。

すえくによしみ/1968年生まれ。文芸評論家。著書に『時代小説で読む日本 史』『時代小説 マストリード100』『夜の日本史』。

この世の春 上 

宮部みゆき(著)

新潮社
2017年8月31日 発売

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この世の春 下 

宮部みゆき(著)

新潮社
2017年8月31日 発売

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