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吉田が「船長」、中村はそれを乗せる「空母」

 デビューから5年ほど経ったころから、吉田がプロデュースを担う部分が大きくなり、コンサートの制作や振付にも手を広げた。そんな彼女に対し、中村は「ドリカムの残りのほう」などと自嘲したり、《[引用者注:自分はドリカムの]本体っていうか母船? 船長は相変わらず吉田なんだけど、やっぱり吉田を乗せる空母としては、いちおう俺が(笑)》と冗談めかして語ったりもしている(※5)。それでもビジネス面では中村がリードし、売れ続けることで音楽をつくり続けようと心がけてきた。

©文藝春秋

 2014年にデビュー25周年を迎えたのを機に、吉田からは「あとはいい意味で好きなようにやっていきたい」と言われたという。申し出を受けて中村は、《これからは吉田がやりたいということを実現していきたいなと。吉田のやりたいことを僕やスタッフが膨らませて、吉田が想像していなかったことをやるっていうのも楽しいな、と。これからはきっとそうなっていくと思います》と今後の展望を述べている(※6)。それでも、中村がデビュー7年目に語った《核となる彼女の詩と歌と声を僕らができるだけ正しく、表現が伝わりやすいように肉付けだけする》という分担、そして以下の夢に変わりはないはずだ。

《僕は三〇歳で始めてビートルズが好きになった。子供の頃は大嫌いだった。全然わからなかった。で、今はやっと分かる自分になってきた。ビートルズを子供の時に分かる人もいれば、僕みたいな奴もいる。だから自分達が良いものを作っていけば、今は分からない世代の人も一〇年経って良いと思ってくれるかもしれない。だからしっかり作ろう。一過性のものではなく。音楽というもののエンターテイメント性の長さ、楽しむ長さを体現したいと思う。(中略)死ぬまでやりたい。ティナ・ターナーのように、六〇歳になっても吉田にミニスカートをはいてほしい。とにかく長くやろう。そして恰好良くやろうというのが僕達の夢》(※1)

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©文藝春秋

 このコロナ禍で、ドリカムは今年開催する予定だったアリーナツアーをすべてキャンセルするなど、またしても危機に立たされている。それ以前からCDが売れなくなり、音楽をめぐる状況が大きく変わるなかで中村は対応に追われてきた。しかし、そういったことで挫ける彼らではないだろう。デビュー前のライブ活動、また全米進出の失敗と復活という体験などから培ってきたものをいかに生かして、新たな時代に合わせた音楽活動をどんなふうに見せてくれるのか。それが形となれば、きっと今後の音楽界の指針となるに違いない。

※1 『SWITCH』1995年5月号
※2 『中央公論』1993年9月号
※3 「DREAMS COME TRUE 祝・デビュー25周年『ATTACK25』特集 中村正人インタビュー」(「音楽ナタリー」2014年配信)
※4 「Real Sound」2014年8月24日配信
※5 「radiko news」2019年3月25日配信
※6 「史上最強の移動遊園地 DREAMS COME TRUE WONDERLAND 2015」公式サイト