こうして社会現象にまでなったドリカムだが、その後もずっと順調に来たわけではない。じつは彼らにも危機に陥った時期がある。それは海外進出をめざし、1997年にレコードレーベルをヴァージン・レコード・アメリカに移籍してからのことだ。
ヴァージン移籍後初のアルバムはタイトルに『SING OR DIE』とつけ、「歌うか死ぬか」の決意と覚悟を込めた。中村としては、けっして勝算があったわけではないが、アメリカやイギリスの音楽から自分たちが学んで消化したものを、アメリカのマーケットに持っていけば、誰かが見つけてくれるはずだと自信はあったという(※3)。しかし、アメリカには日本よりはるかに巨大で複雑なシステムがあり、そこに入り込むにはまず莫大な資金、膨大な数のエージェントが必要だった。高い壁に自信は打ち砕かれ、結局、2002年にはヴァージンを離れる。のちに中村は、《アメリカでのチャレンジは失敗だった。(アメリカの)レコード会社もクビになったし、勉強不足も甚だしくて、そこでバンドが終わってもしょうがないっていう状況まで追い込まれた》と明かしている(※4)。
日本国内の音楽業界でも受けた「逆風」
日本国内でも、アメリカのレコード会社への移籍は“業界の掟破り”と見なされ、テレビ局からは締め出され、ラジオでも曲をかけてもらえないなど、すっかり干されてしまう。そのために中村は数年にわたって各方面に謝り続けた。彼が後年省みたところによれば、《ドリカムを知ってもらいたいと思って一生懸命やってたつもりだったんですけど、たぶんいい気になってたんだと思うんです。レコード会社と別れて後ろ盾がなくなったら、その反発が一気に吹き出してきた》という(※3)。
そんなとき、吉田美和が「事務所が守ってくれなくてマサさんが悪者になるなら、もう私たちでやろう」と言ってくれ、一緒にインディーズレーベル「DCT records」を立ち上げる。それでも状況が変わってくるまでには5年ほどかかった。この間、2002年には西川隆宏がグループを脱退、やっとうまく転がり始めたかと思われた矢先、2007年には吉田の内縁の夫で映像ディレクターの末田健が亡くなるという不幸にも見舞われた。中村に言わせると《ビジネス的にもバンド的にも、ドリカムを生存させるだけで精一杯》ではあったが、それでも《休止せず、できるだけ続けることが大切だ》との一心で音楽活動を継続する(※3)。