神楽がある限り若者は残り続ける
広島県の神楽は、地域によって五つに分類される。芸北地域のそれは「芸北神楽」と呼ばれる。勧善懲悪の分かりやすい物語で、音曲はアップテンポの「八調子」だ。和紙で作る面は長さ五十センチメートルを超えるものもあり、何百万円もする絢爛(けんらん)豪華な衣装をまとう。剣劇あり、仮面を使った早業の変化(へんげ)ありで、演出には煙幕や花火も使う。安芸高田市には二十二の神楽団がある。
起源は島根県の石見地方の儀式的な神楽だ。江戸末期までに伝わり、集落ごとに独自の発展をした。ところが戦争で中断を余儀なくされ、戦後はGHQに規制された。天皇賛美の演目が多かったのが理由という。
そこで安芸高田市の小・中学校教師で、郷土芸能研究家の故佐々木順三さん(一九〇八~二〇〇六年)が「新作高田舞」を発表した。GHQの目を逃れるために、謡曲などを参考にし、演劇性の高い台本を次々と書いたのだ。戦前の旧舞に対して新舞と言う。これが人々を魅了し、芸北神楽の新時代が幕を開けた。
しかし高度経済成長で若者が流出し、舞い手の確保が難しくなっていった。同市で有数の実力を誇る横田神楽団も数年間、活動を休止した。それを一九六四年、現在の久保良雄団長(77)ら当時の青年団員十三人で復活させた。「経験者に聞き、他の団の演舞を見て学んだのですが、当初は演目が少なくて時間が余り、青年団の演歌バンドとセットで公演しました」と笑う。久保さんは安芸高田神楽協議会の会長である。
地元の小学校に郷土芸能クラブができた時には教えに行った。谷本陽莊(ようそう)さん(45)は小学五年でこのクラブに入り、魅力にとりつかれた。同市の広島県立吉田高に進学した時、神楽部はまだなかったので、横田神楽団に所属した。卒業後、谷本さんは大阪の料理専門学校に進もうと考えていた。だが、親に「神楽はやめられるのか」と尋ねられた。「神楽のない生活は考えられない」。谷本さんは地元の衣料品メーカーに就職して、神楽を続ける道を選んだ。
「農協、自営業、郵便局、近くの工場……。うちには同じように神楽のために地元に残った団員がたくさんいます」と久保さんは言う。
谷本さんが二十歳ぐらいの時だ。芸北神楽にまた転機が訪れた。隣の北広島町の神楽団が、三代目市川猿之助のスーパー歌舞伎から着想して、宙づりなどを取り入れた「スーパー神楽」を始めたのだ。これが火付け役となり、若い女性の間で神楽ブームが起きた。「拍手が地鳴りのように聞こえ、会場に入れない競演大会もありました」と谷本さんは振り返る。若い舞い手の「追っ掛け」をする女性が出現し、芸北地域の高校には次々と神楽部や同好会ができていった。吉田高の神楽部も〇〇年に創設された。
現在の同校神楽部(十八人)の部長は奥原伶至(りょうじ)さん(三年)だ。父は同市の塩瀬神楽団の団長。母も団員で「僕がお腹にいる時にも笛を吹いていました」と話す。三歳の頃から神楽遊びをしてきた神楽の申し子だ。自身も同じ神楽団に所属していて、家族の会話はいつも「神楽」だ。夢は「地元で仕事をしながら、神楽を続けること」と話す。
吉田高は昨年の部長、山下春希(はるき)さん(18)も神楽を続けるために県内の大学に進んだ。「担任の先生には県外に進学して力を試してはどうかと勧められたのですが、どうしても神楽を捨てられませんでした。練習のない平日は体が動き出しそうになるので、神楽のDVDを見て抑えています」と言う。市内の神楽団に所属しており、週末ごとに練習や公演のために実家に帰っている。
今年の神楽甲子園で、吉田高の出番は二日目の最後から二番目だった。演目は矢上高と同じ塵倫。客席からひときわ大きな拍手が湧く。
奥原さんは伸びやかな歌声と大太鼓で演舞をリードした。塵倫役は西田良也さん(三年)だ。やはり市内の神楽団に属しており、「生涯神楽をしていくために、卒業後は地元で就職したい」と希望している。
「他校には負けたくない」と話していた奥原さんの言葉通り、吉田高の演舞には切れと深みがあった。塵倫が従える鬼は四匹も出てきてスケールが大きい。バチ、バチと床を叩きながら舞うので迫真の恐ろしさだ。塵倫と帝らが戦うシーンでは、舞い手がぐるぐると回転する。その速度は他校の追随を許さなかった。
ついに塵倫は討ち取られて舞いが終わる。割れんばかりの拍手。西田さんは「最高!」と壇上で叫んだ。
吉田高の三年生は神楽甲子園が引退の舞台になる。「最後に皆で楽しく舞えました」。緊張していた奥原さんの顔が、高校生に戻る。
暑い夏が終わった。