午前八時二十分、人通りのない商店街に五十台ほどの軽トラックが入って来た。商店街を貫く四百七十メートルの県道は歩行者天国になっており、等間隔で駐車していく。
車からばらばらと人が下りてきて、荷台の品物に値札を付けるなどして出店準備が始まった。看板を出す人、テントを張る人、調理のための火を起こす人もいる。
それを待っていたかのように客が集まり、見る間に通りが埋めつくされた。午前九時の開始時間にはまだかなりあるが、もう黒山の人だかりになった「店」もある。
そのうちの一つが地元農家など六人で作る「ごろはち産直」だ。この日は早坂道子さん(68)が自分の山でとった山菜をどっさり出したので、毎年楽しみにしている人が殺到した。取材しようとしばらく待っていたが、客が相次ぎ、話を聞ける状態ではない。後日会う約束をして、他の「店」に移った。
岩手県雫石(しずくいし)町の「元祖軽トラ市」は、毎年五月から十一月の第一日曜日に「よしゃれ通り商店街」(三十八店)で開かれている。毎年計二万人以上の人出があり、今年の第一回目だった五月七日には過去最高の約六千四百人を記録した。取材に訪れた第二回目の六月四日も、約四千人で賑う盛況ぶりだった。
軽トラック市は、農家にとれたての野菜を積んできてもらい、そのまま荷台で売ってもらうなどしようという催しだ。二〇〇五年に同商店街で始まった。雑多で華やかなバザールのような雰囲気が受けたのか、瞬く間に人気イベントになった。それだけではない。燎原の火のごとく全国に広まった。家具製造販売の「相澤木工所」を営む「元祖軽トラ市」の実行委員長、相澤潤一さん(50)によると「うちのような歩行者天国型が五十〜六十カ所、広場で催している地区も四十〜五十カ所ある」という。雫石には毎回視察者が訪れており、まだまだ増える勢いだ。
だがこれほどの催しも、最初から順調だったわけではない。当初は「二、三年で終わるのではないか」(相澤さん)と思ったほどだった。
「よしゃれ通り」は雫石の中心商店街だ。しかし一九八二年、商店街の真ん中を通る国道が、バイパスの開通で県道に格下げされ、交通量が激減した。隣接する盛岡市内に大型ショッピングセンターができたほか、バイパス沿いにも出店が相次ぎ、商店街は廃れていった。
町役場は〇三年、「また人を呼び込もう」と中心市街地活性化基本計画を策定した。その時に開いたワークショップで出た案が軽トラック市だ。盛岡のスーパーで店長をしていた委員が「雫石は農業が基幹産業なので農家が多い。農家はほとんど軽トラックを持っているから、荷台に作物を積んだまま売りに来てもらえば、撤収も楽ではないか」と提案した。商店主、役場や農協の職員、観光関係者、出店者などで実行委員会を作り、具体化させていった。
最初の課題は道路の使用許可だった。「県警は堅くてなかなか出さない」(相澤さん)と言われていた。そこで政府の地域再生特区の認定を受けた。国の圧力で県警を動かそうと考えたのだ。「国会議員にも動いてもらった」と元町議が明かす。
ところが、肝心の商店街は猛反発した。相澤さんらは地元説明会を二度開いた。初回は三十〜四十人が集まり、「歩行者天国にしたら客が車で来られなくなる」「市を開いても店の客が増えるわけではない」などと反対の声が噴出した。二回目はそうした声への回答を用意したが、「十人も集まりませんでした」と相澤さんは振り返る。
道路使用許可の申請には、最終的に道路に面した商店の同意書をもらわなければならない。だが、印鑑をなかなか押してくれない人もいた。
出店者も簡単には集まらなかった。「商工会や役場の職員が農作業をしている人を見つけると、泥の中にまで入って説得しました」と「ごろはち産直」の上野(うわの)節子さん(68)は話す。上野さんは実行委員の一人でワークショップから参加している。そうした苦労を目の当たりにし、「私達も出そう」と同級生や友人で出店するグループを作った。「ごろはち」とはメンバーの住んでいる地区が、雫石町の行政区の五、六、八区だからだ。上野さんの夫至さん(68)の米、猿子孝子さん(58)のユリ、杉田和正さん(68)の黒ニンニクなどを出すことになった。
そうして何とか実施への見込みが立ち、開催時期は降雪期を除く七カ月間とした。第一日曜日にしたのは「人々の購買意欲が増すのは月末の給料日の後」だからだ。開始は朝収穫した野菜を持ち寄る時間を計算して午前九時。終了は夏の炎天下の荷台で野菜が売り物にならなくなるといけないので、午後一時とした。
集客には不安があった。そこで初回は第一日曜日ではなく、近くの温泉の花火大会が開かれる月末の日曜日に合わせた。温泉の案内看板の横に無許可で「軽トラ市」の看板を立て、「見つかったらすぐに撤去できるよう、人を張りつかせるようなことまでしました」と相澤さんは笑う。
蓋を開けてみると、三千人も集まった。だが、相澤さんは喜べなかった。日曜日というのもあって商店街はほとんどシャッターを下ろしたままだったのだ。その後も「歩行者天国だと車で店に行けない」などという苦情に悩まされることになる。
しかし商店主達も内心では集客力に驚いていた。そのうち「軽トラ市に負けじ」とばかりに店先で商品を並べる店が増えていった。売る物がない写真店は、格安のかき氷などで客寄せをした。相澤さんらが「何とかやっていける」と確信したのは、地元商店と出店者の競争がかみ合い始めた三年目だ。イベントの名称も呼びやすく「軽トラ市」にした。