文春オンライン

連載地方は消滅しない

地方は消滅しない――奈良県野迫川村の場合

関西最大のアマゴ養殖場を集落が経営する

2017/06/12
note
イラストレーション:溝川なつみ

 バチバチバチ。養殖池に水しぶきが上がる。網ですくわれたアマゴが、次々と冷蔵車に積み込まれた。

「大手スーパーに出荷するので、奈良県内だけでなく、大阪、京都、滋賀の店舗にも並びます。四月から盆までしか出回らないため、心待ちにしている人が多いんですよ」。奈良県中央卸売市場(大和郡山市)で営業する丸中水産の中尾康浩さん(52)が話す。中尾さんは毎週金曜日に二時間以上かけて、同県野迫川(のせがわ)村の大股(おおまた)漁業生産組合へ集荷に来る。同組合のアマゴは「あっさりしているのに風味がある」(アマゴ釣りが趣味の45歳男性)と好評なのだ。

 紀伊半島の山々に囲まれた野迫川村は、奈良県でも隠れ里のような存在だ。国道も信号もなく、携帯電話が通じない地区もある。役場の標高は八百十メートルで、年間平均気温は九・二度と札幌市並みだ。

ADVERTISEMENT

 人口は約四百二十人しかなく、谷筋にへばり付くようにして十五の集落が点在する。大股漁業生産組合は役場から十三キロメートルほど離れた大股という集落にあり、ここでは十二戸、二十八人が暮らしている。

 同組合は大股集落の経営だ。アマゴの養殖場を持っている。しかし侮(あなど)るなかれ、普通の養殖場ではない。

 とにかく水が清冽だ。集落のそばを流れる大股川から引いており、養殖場より上流には国有林しかない。冷涼な気候なので真夏でも水温は十七〜十八度以下だ。二十度以上では生きられないアマゴにとって、またとない環境だろう。そうした水がドウドウと流れ込む中で育つだけに、「清流の女王」の名にふさわしい成魚になる。アマゴは体長二十センチほどの淡水魚でサケの仲間だ。静岡県以西の太平洋側などに生息する。

 組合に対する評価は高い。

 アマゴ釣りのシーズンになると、関西一円の漁協や釣り堀などから放流用の注文が相次ぐ。

 料理用にも、奈良県内の和食料理店やホテルはもとより、東京のイタリア料理店にまで送っている。

 甘露煮の真空パックも自前で製造している。

 年間生産量は十二〜十三トンと、「関西最大規模のアマゴ養殖場」(近畿農政局)なのだ。これだけの企業体を、わずか十戸ほどで経営している集落が全国にあるだろうか。

事前に一匹ずつ選別してから出荷先を決める

 それにしても、なぜ始めたのか。話は一九七〇年にさかのぼる。

「集落の会合で三十〜四十代の若手が言い出したのです。その頃の大股は、ほとんどの住民が林業従事者でした。体力勝負なので六十歳になれば引退です。山に行かなくなってからもできる仕事を作ろうというのが発端でした」。組合長の中谷收さん(79)が振り返る。

 大股の人々は天然のアマゴを釣っては、塩焼きや甘露煮、炊き込みご飯などにして食べていた。しかし釣りブームが訪れ、都会からの釣り客が増えて、アマゴが減り始めた。アユは既に琵琶湖産の放流が行われていた。「ならばアマゴを養殖して放流してみてはどうか」と考えたのだ。商売になるとまでの見込みはなかったが、まとまりのいい集落だけに、反対はなかった。

 集落で最も上流の川岸に、過疎対策の補助金で養殖池を四面造り、当時の全十六戸で組合を発足させた。初代組合長には、六十歳を少し過ぎて山仕事を引退していた池尾由次郎さん(九五年に八十八歳で死去)が就任した。役場に就職していた中谷さんは事務を任された。

 だが、養殖の知識を持つ人はいなかった。「北海道でサケを捕獲し、育てた稚魚を放流する番組がテレビで放映されていました。それを参考にして、見よう見まねで始めたのです。池尾さんが中心になって研究しました」と中谷さんは話す。

 まず、秋に産卵期を迎えたアマゴを捕獲した。卵を取り出して精子を掛ける。一カ月ほどで稚魚が生まれた。ところが稚魚にどんな餌をやっていいか分からない。池尾さんはすり下ろしたゆで卵や脱脂粉乳を与えた。成魚になる過程ではコイの餌も与えたようだ。それでもなんとか育った。ちなみに現在は市販のマス用の配合飼料を使っている。

「こんなやり方でしたが順調に育ちました。七七〜七八年ごろには軌道に乗ったと記憶しています」と中谷さんは話す。放流用の注文が舞い込むようになり、養殖池を二十八面に増やした。しかし今度は補助金に頼れなかった。適用要件が変更されて、自己資金を注ぎ込まざるを得なくなったのだ。各戸に三十万円ずつ出資してもらったほか、集落の共有林を担保にして農林中金から資金を借りた。工費を少しでも安くするために、集落総出で作業をした。養殖池は、県庁でもらった設計図をもとにして、集落の大工が型枠を造り、コンクリートを流し込んだ。

 給餌や水の管理は全戸で当番を決めて行うようにした。これは三十年ほど前に変更になり、それ以来、平日は組合員の増谷安希子さんが常勤職員として一人で担当している。ただし日曜日や正月の当番は、今でも全戸で持ち回りにしている。

 放流用に何百キロも出荷する時には、現地の放流時間から逆算して午前四時、五時といった早朝に全戸、養殖池に集合して作業に当たる。

 増谷さんが作っている甘露煮も、レシピは集落の女性が集まって考えた。「甘露煮は家庭料理です。だから集まって、酒が足りない、醤油が多いと、味見をしながら試作しました。つまり大股のお袋の味なんですよ」と増谷さんは微笑む。

 養殖場には用事がなくても訪れる組合員がいる。世間話の傍ら、壊れた工具を見つけて直してくれる人もいた。養殖場は集落のたまり場のようになっていった。

 しかし、全てが順調に進んだわけではない。危機もあった。

 病気だ。二十五年ほど前、県外から稚魚を入れたところ、付着していた病原菌が繁殖した。魚を入れ替えるなどして切り抜けたものの、対策のために大工事を行った。コンクリートの打ちっぱなしだった養殖池に、シートを張って塗装したのだ。各戸から五十万円ずつ借りて材料費を捻出し、作業は全員で行った。

 災害にも見舞われた。