集落で決めて集落で乗り越えた
「アマゴは水が命」と大路照代さん(49)は言う。池に新しい水が流れ込まなくなると、ほんの数時間で弱ってしまうからだ。大路さんは常勤ではないものの、出荷前の選別や甘露煮の調理でパートとして増谷さんを補佐する。やはり組合員だ。
大雨が降ると、組合員が養殖場に集まって来る。上流の取水口に落ち葉が詰まらないか、池に導水するパイプに泥がたまらないか、養殖池の水が止まらないよう、夜通し警戒しなければならないからだ。
二〇一一年九月、紀伊半島豪雨の時もそうだった。明け方、増谷さんは「ダンプの砂利をひっくり返したような音」を聞いた。と同時に養殖場の後ろの山から土石流が発生し、池がいくつも呑み込まれた。近くにいた中谷さんは膝まで泥混じりの水に浸かり、危うく流されかけた。
採卵用の親魚は半数が埋まった。埋まらなかった池も底から半分ほど泥が溜まり、じわじわと干上がって、アマゴがピチャピチャ跳ねた。組合員は総出で泥を掻き出したが、大路さんは「もう再建できないかもしれない」と思った。
だが、増谷さんは八六年にもっと酷い土石流に見舞われ、大量の魚が死んだのを思い出していた。もう亡くなってしまったが、アマゴ養殖を発案した男達が健在で「壊れたら直せばええんや」と言いながら、復旧作業を引っ張っていた。吹き飛んだ導水パイプもどんどん付け替えた。そのバイタリティを昨日のことのように覚えている。
今度は増谷さんが引っ張る番だった。村は道路が寸断されて、大股も孤立したが、そのようなことに構っていられなかった。養殖場復旧の道筋が見えてきたのは、一週間ほど泥を掻き出し続けた後だったろうか。親魚が半減して一時的に生産量を落とさざるを得なかったが、「関西最大規模」の地位は維持した。
養殖は決してもうかる事業ではない。災害が起きれば赤字になり、餌代が高騰しても経営が苦しくなる。水を扱うので危険が伴うだけでなく、作業に出ても一日七千円の日当がつくだけだ。
それでも続けてきたのは「皆でやろうと決めて、皆で様々な問題を乗り越えてきたからだ」と災害を体験した大路さんは思う。アマゴの養殖は大股の人々の結び目のような役割を果してきたのではあるまいか。
大股のアマゴは近年脚光を浴びつつある。奈良県が一二年、アマゴを「県のさかな」に選定した。一六年には近畿経産局が管内で初めて、大股のアマゴを「ふるさと名物応援宣言」の対象に選んだ。同局は地域資源法に基づいて販売や加工を応援している。
同局の宣言は、大股の区長を務めていた津田晃さんが働きかけた成果だ。晃さんは人口減少に悩み、外から訪れる人も少ない村の良さを知ってもらおうと長年活動を続けてきた。ところが昨年十月に亡くなった。家業の林業会社の社長として伐採現場に出ていて転落事故に遭ったのだ。まだ五十八歳だった。大学はアマゴのために、家業とは関係のない水産学部に進んだほど地元に愛情を持っていただけに、集落は深い悲しみに包まれた。
しかし晃さんは後継者を残した。兵庫県加古川市出身で、村内のレジャー施設で一年間働いていた南祐希さん(29)を自分の会社に入れ、定住してもらった。一〇年のことだ。
一二年には大学を卒業したばかりの息子の一馬さん(27)を戻した。「大股には世界遺産の熊野古道が通っているので、外国人を含めた来訪者が急増しています。アマゴの新しい動きも含め、この機会をとらえて僕らが新しい感覚でアマゴを宣伝していけば、もっと食べてもらえる可能性があると思います」と一馬さんは語る。ただ、二人はまだ林業の修行中で、アマゴにまで手を伸ばす余裕がない。
そうした彼らを集落の人々は温かく見守る。「今は林業をしっかり勉強してほしい。当分は私達が頑張るから」と増谷さんは言う。
集落の戸数は十六が十二に減った。組合員も高齢化で出て来られなくなり八戸になった。それでも二人が必ず盛り立ててくれるはずだ。
“集落営企業”は不思議な存在だ。緩やかに世代をつないでいく。それが、山深い大股集落の維持装置になってくれることを願うばかりだ。