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「何年でも待つから」客の言葉で再起できた

 出店の枠は六十台弱で、毎年募集している。町内だけでなく盛岡都市圏からも集まる。だが、「農家は三割程度」(相澤さん)しかない。

「軽トラックなら何を売ってもいい。許認可は各自で取る」というルールにしたので、いろんな業種の出店者が増えたのだ。実はこれが「元祖軽トラ市」の魅力である。

「何でもありです。いろんな店が出るので、面白い。当初は高齢者が中心だった客層も、家族連れや若者にまで広がってきました」と相澤さんは話す。

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 例えば旅館が軽トラックで来る。町内の温泉旅館「長栄館」は一六年から出店している。営業部課長の小笠原崇敦(たかのぶ)さん(43)は「地元農家のリンゴをいっぱい使ったアップルパイを開発したので、広めたいと参加しました。十月から五月までの期間限定商品ですが、軽トラ市の宣伝力もあって、旅館で売り切れるほどの人気商品になりました」と話す。洋梨タルトやまかないカレー、自慢料理の鳥天も販売している。

 軽トラックそのものを売る人もいる。同県紫波(しわ)町の大野晴久さん(78)だ。元紫波町商工会長で、県中古自動車販売協会の会長の大野さんは「軽トラ市が始まった時、軽トラックを売る催しかと思って雫石商工会に電話をしました。そうではないと聞いたのですが、軽トラ市で軽トラを売るという語呂合わせがいいし、商売は遊び心だから、参加しました」と話す。「これまでに十四〜十五台売れた」と言い、この日も六台並べたうちの一台が売れた。

軽トラまで? 売っている

「六十代の娘さんが、八十代のお父さんに買ってあげました。今乗っている車を間もなく廃車にするので、それを最後に車の運転は止めようと話していたそうです。でも田舎なので外出に困るから、もう少しだけ近所で乗れるようにと買ったのです」

 犬を売りに来るブリーダーもいる。ほとんど売れないが、「これも宣伝のうち」と店主は話す。

「二〜三年出店していたパン屋さんは、味を知ってもらおうと大量に試食させていました。そのうち人気店になって忙しくなり、軽トラ市には来られなくなりました。技術を見てほしいと出店した工務店は、木の組み方などを実演展示していました。私達がよその軽トラ市で見て面白かったのは整体です。雫石でも声掛けして出店してもらい、荷台で施術してもらったら目立ってましたね。盛岡のFM局には荷台で放送してもらいました」と相澤さんは話す。こうした話題には事欠かない。

 一方、軽トラ市に救われた人もいる。同県山田町の漁師で「寅丸水産」代表の上林禎久さん(51)、ともえさん(41)の夫妻だ。

 夫妻が、三陸海岸の山田湾でカキ、ホタテ、ホヤ、ワカメ、コンブの養殖・加工を手掛けるかたわら、軽トラ市に出店したのは〇六年だ。内陸の人に山田湾の海産物の美味しさを知ってもらおうと考えた。商業的には規格外でも、柔らかくて美味しいワカメの根っこを海鮮汁にするなどして、海の魅力を伝えてきた。

山田町から来る「寅丸水産」。津波で流された鍋で海鮮汁を出す

 あの日、二〇一一年三月十一日、自宅は津波に襲われて、基礎しか残らなかった。加工所は丸呑みにされ、船も流出して沈没した。家族にケガはなかったが、親類は十人も亡くなった。

「もう海の仕事は続けられない」。禎久さんは肩を落とした。家も加工所も船も失い、ゼロから借金で事業を再開する体力はなかった。

 だが、夫妻はこの年も休まず軽トラ市に出かけた。〇六年から欠かさず出店してきたので、休みたくなかったのだ。軽トレーラーを流されてしまい、本来なら出店資格はなかったが、中古のバスで特別に参加させてもらった。ただし売る物はなかった。水没した冷凍庫に残っていたスルメイカの干物の真空パックを、募金をしてくれた人に手渡した。

 そんな時に、来店者から声を掛けられた。「何年でも待つから、また美味しい物を持って来て」。涙が出るほど嬉しかった。夫妻は力が湧いてくるのを感じた。

 この言葉を励みに軽トラ市に通い続けた。政府の補助を受けながら借金をして、徐々に事業を再開していった。「軽トラ市に行っていなかったら、漁をやめていたかもしれない」と禎久さんは話す。

「目の前で多くの人が死んでいった津波を忘れてほしくない。山田町のことをもっと知ってほしい」という思いを胸に車を出している。

 軽トラックは面白い乗り物だ。免許さえあれば気軽に運転でき、何でも載せられる。載せる物次第で楽しさが広がり、時には再起への力まで与えてくれる。全国の軽トラック市では、今日も可能性と出会いが生まれているはずだ。