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私たちは「善良」だったか? 『エール』の終戦が“被害者意識”の日本人に突きつけるもの

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2020/10/20
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「いまの日本の問題は、被害者意識から出発していること」

「いまの日本の問題は、みんなが被害者意識から出発しているということじゃないですか。映画監督の大島渚はかつて、木下恵介監督の『二十四の瞳』を徹底的に批判しました。木下を尊敬するがゆえに、被害者意識を核にして作られた映画と、それに涙する『善良』な日本人を嫌悪したのです」

是枝裕和監督 ©文藝春秋

 ドイツの哲学者が「アウシュビッツのあとで書かれる詩」を野蛮と呼んだように、大島渚監督は美しい国民的反戦映画からこぼれ落ちる加害と責任の意識を強く指摘した。

戦時歌謡の詞にメロディをつけたことへの悔恨

 朝の連続テレビ小説『エール』は、主人公の戦争への加担責任、それも表現者としての責任を描いている。重要なのは、この物語で描かれる主人公、古関裕而をモデルにした古山裕一という人物が、作詞家ではなく作曲家であるということだ。

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「勝って来るぞと勇ましく」と書いたのも、「いざ来いニミッツ マッカーサー 出て来りゃ地獄に逆落とし」と書いたのも作詞家であって主人公ではない。彼はただ西洋音楽を手本に美しいメロディを作っただけなのである。だからこそ、その美しいメロディをその時代を支配する言葉と接続した、それを止めることができなかった主人公の不作為責任、その間接的な加担への悔恨をドラマは描く。

『エール』で描かれるのは「美しい文化を踏みにじる野蛮な軍部」ではなく、美しく繊細な文化、楽しい娯楽が戦争に加担し巻き込まれていくプロセスである。朝の連続テレビ小説の歴史の中でも、政治に対する文化の責任を「戦時歌謡の詞につける作曲」という形で象徴的に表現した『エール』の手法は際立っている。

窪田正孝 ©時事通信社

 窪田正孝は、これまでの多くの作品で演じてきたキャリアをこの作品に集約するように、ナイーブで繊細な主人公、二階堂ふみが演じる妻にリードされる少年のような作曲家が、その優しさのゆえに戦争の力に逆らえず巻き込まれていくプロセスを鮮やかに演じている。

 今年の初め、主演映画『初恋』が公開されたころ、彼は『PICT-UP』という雑誌のインタビューに答え「いつかは他の誰かが自分の今いる場所に座る、その時、『初恋』の共演者なら(先輩俳優の)大森南朋さんや内野聖陽さんのようになっていたい」という意味の内容を答えている。

 優しくナイーブであるだけでは強い政治の力に飲み込まれてしまうという『エール』で演じた役柄、そして残された放送回でそこから立ち上がる新たな主人公の人物像は、俳優としてのこれまでの集大成、そして今後への転換を象徴する代表作になるだろう。