文春オンライン

私たちは「善良」だったか? 『エール』の終戦が“被害者意識”の日本人に突きつけるもの

CDB

2020/10/20
note

薬師丸ひろ子が提案した、讃美歌を歌うシーン

 終戦後を描く第19週『鐘よ響け』では、歴史の正しい側から追放された主人公が描かれる。終戦まで主人公と同じように戦争に加担していた民衆からの「よくのうのうと生きていられるもんだ」という非難は、容赦なく主人公に突き刺さる。「もう音楽はいいかな」19日月曜の放送回で主人公はつぶやく。アウシュビッツの後の世界で、もはや詩を書くことはできないと語ったドイツの哲学者のように。

 だがその前週のラストでは、薬師丸ひろ子が演じる主人公の妻の母、光子が焼け跡の廃墟で賛美歌を歌う場面が描かれる。これは当初の脚本では「戦争の、こんちくしょう! こんちくしょう!」と光子が地面を叩いて叫ぶ場面だったのだが、演じる薬師丸ひろ子の提案で賛美歌を歌うシーンに変わったのだという。

 脚本家ではない薬師丸ひろ子が、どういう思いでその提案を切り出したのかは本人の言葉を待つしかない。だが演出スタッフの同意も得て、一切の伴奏なく、ただ薬師丸ひろ子の声のみで歌われるその賛美歌は、その直前に主人公が吐き出す「僕は音楽が憎い」という言葉と対比される、何度踏み消しても民衆の中から湧き上がる音楽を象徴するシーンになっていた。

ADVERTISEMENT

NHKテレビ小説『エール』公式HPより

 エールの第1回放送は、あまり評判が良かったとはいえない。窪田正孝と二階堂ふみが1万年前の人類に扮して木を叩くその場面は、まるでコントのようじゃないかとネットでは揶揄された。だがその後の戦争を経て見返す初回のその場面は、政治利用される前の音楽の起源、この物語が立ち返る場所を描いた原点になっている。

『エール』が描くテーマには2つの側面がある。表現の責任と表現の自由。表現することの責任と重さ、そしてアウシュビッツのあとに再び詩を書き、歌を歌い始めるような民衆の野蛮なまでに自由で原始的なエネルギーである。第1回のシーンはエールのもう一つのテーマ、その音楽のエネルギーに立ち返るシーンになっている。

野蛮でも、詩は書かれ、歌は歌われるべきなのだ

 18週のラストから19週にはじまる戦後編には北村有起哉が演じる劇作家、池田二郎が登場する。窪田正孝の演じる繊細な主人公とは対極の、スリの戦災孤児の腕をつかんで「お前たちの物語を書いてやる」と笑うタフでしたたかな男は主人公の家を訪れ、俺の脚本のために曲を書いてほしい、と頼み込む。それは戦後の物語の幕開けを告げる野蛮なエネルギーを持つ男だ。

©iStock.com

「NHKだもんね、ウソはつきませんよ」「15分じゃ短すぎる!」北村有起哉が演じるタフでしたたかな脚本家のセリフは、分断とアクシデントの中、先の見えない歴史の中で、「それでも何度でも、自分たちは作り続ける」という朝ドラの作り手たちの自己言及に見える。

 テイラー・スウィフト、アイス・キューブ、そして無数のクリエイターたち。今日も人々は正義が揺れ動く世界で詩を書き、歌を歌い始める。それがどれほど野蛮だとしても、やはり詩は書かれ、歌は歌われるべきなのだ。歴史の正しい側はどちらかと自問しながら、アウシュビッツ、広島や長崎や911の後、そして次の戦争が起きる前の世界で。 

私たちは「善良」だったか? 『エール』の終戦が“被害者意識”の日本人に突きつけるもの

X(旧Twitter)をフォローして最新記事をいち早く読もう

文春オンラインをフォロー