昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

2020/11/01

検事総長から、父にフィリピンに来て証言してほしいと

ーーアキノ氏暗殺事件によって政権に対する不信感が強まり、1986年にマルコス大統領はアメリカに亡命しました。その2年後の1988年、お父様はフィリピンの法廷で暗殺事件について証言されたそうですね。

鈴木 ラウレル・ゴンザレスというフィリピンの検事総長の方がうちにやってきて、父にフィリピンに来て証言してほしいと直々に頼んだそうです。独裁政権が終わったといっても、あの頃はまだマルコス派も多かったはずですから、彼らになにかされるんじゃないかと不安だったと思います。行く行かないを決めるために、家族会議を開きました。

ーー創さんは高校生になっていてフィリピンの事情や事件の背景も理解できただけに、かなり心配されたのではないですか。

鈴木 家族会議で「証言する前に消されるかもしれない」なんて父も言っていましたからね。はたして、父がそこまでやる必要があるのかと。外務省を通じて分析結果をフィリピンに渡せばいいだけの話じゃないか。そんなことをずっと話し合ったのをおぼえています。私よりも母のほうがひどく心配していましたが、自分の口でしっかり説明できるからということで行くことにしました。

 

ーーフィリピンから戻られてきた時は、ホッとされたのでは?

鈴木 しましたけど、その後の報道を見て、「あ、凄いことだったんだ」と改めて感じることのほうが大きかったですかね。そして、やっぱりフィリピンには行くべきだったんだなと。なにしろ、父の分析もきっかけのひとつとなって長年にわたって独裁を続けていたマルコス政権が倒れ、民主化が一気に進んでいったわけですからね。

ーーグリコ・森永事件のあった1985年には日航機の御巣鷹山墜落事故もありましたが、こちらでもお父様は音声分析をされています。

【日航機墜落事故(85年)】

 1985年8月12日、羽田空港から伊丹空港へと飛び立った日本航空123便が操縦不能になって群馬県多野郡上野村の御巣鷹山に墜落。搭乗員524名中、520名が死亡した。1987年6月15日、後部圧力隔壁の損壊によって引き起こされた事故であったことが報告された。死亡者のなかにはかい人21面相から脅迫されていたハウス食品の浦上郁夫社長もおり、マスコミに届けられた挑戦状にあった「くいもんの 会社 いびるの もお やめや」との宣言によって事件が終息したことを創業者である父親の墓前で報告するために123便に搭乗していた。

鈴木 あの日は友だちの家に遊びに行っていて、帰ってきたら日航機が御巣鷹山に落ちたという話を聞いて。その夜からいろんな音源が持ち込まれて、徹夜するような形で分析していましたね。後にブラックボックスの分析もやりました。