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“菊花賞最強馬”ナリタブライアンの衝撃 「アンチ・ブライアン」記者が振り返る“取材規制”の真実

“菊花賞最強馬”ナリタブライアンの衝撃 「アンチ・ブライアン」記者が振り返る“取材規制”の真実

10月25日は第81回菊花賞

2020/10/24
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ナリタブライアン陣営の「取材規制」とその理由

 ここで、正直に書いておくと、三冠を戦っていたとき、わたしは「アンチ・ブライアン」だった。というよりも、あの年の三冠レースは現場で取材していたマスコミとナリタブライアン陣営の関係がぎくしゃくしていた。競馬場の大歓声のなかでも小さく形のいい耳をピンと立てて悠然と歩いていたナリタブライアンの姿からは想像できないのだが、厩舎にいるときには神経質な面があった。そのために厩舎サイドはJRAに頼んで「取材規制」という異例の措置をとったのだ。それにたいして反感をいだいていた取材者はすくなくなく、わたしもそのひとりだった。

 この取材規制騒動は大久保さんのことば足らずが招いたことだったと知ったのはナリタブライアンが死んだあとで、追悼記事(わたしにとっては懺悔の記事)を書くために大久保厩舎をたずねたときだった。元々口数がすくなく、取材は苦手だという大久保さんは取材者にはなかなかむずかしい調教師だったが、このときはまるで別人のように、時間を割いてくれた。孫の写真を見せるようにアルバムをめくりながらナリタブライアンのおもいでを語り、取材規制についての話もしてくれた。

大久保正陽元調教師 ©文藝春秋

 ナリタブライアンがスプリングステークスに勝ったあと、仔馬を見るために北海道の牧場に飛んだ大久保さんは、月曜の夜、ひどい腹痛に襲われた。翌日、痛みを堪えながら帰ってきて病院に行くと、虫垂炎だった。手術をすれば簡単だったが、大久保さんは医師に頼み、ダービーが終わるまで薬で痛みを抑えることにする。だが、これがいけなかった。皐月賞のときには痛みがひどくなり、マスコミには風邪をこじらせたことにして自宅で静養していた。ダービーのときも東京競馬場に行ったのはレース当日だった。

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周囲の騒動をよそにナリタブライアンはダービーも快勝 ©文藝春秋

競馬人気が最高潮に達していた1994年の喧騒

 当時、関西馬が中山や東京のレースにでるときは早めに競馬場に移動して調整されていた。ナリタブライアンを担当していた村田光雄調教助手はこのとき25歳。自分の担当馬がクラシックレースに出走するのは初めてだった。ダービーの馬券売上げが史上最高の567億円を記録するなど、競馬人気が最高潮を迎えようとしていたときで、クラシックの本命馬のもとには様々なメディアが殺到した。厩舎取材に不慣れな人も多く、無断で厩舎にはいって撮影するカメラマンもいたという。応援のスタッフが来るまで村田さんはひとりで馬の調教をし、経験したことのないプレッシャーと戦いながらマスコミの応対もしていたが、手に負えなくなり、「取材規制」となったのだ。村田さんは言った。

「ぼくが若かったこともあるんですけど、あのときは周囲の雑音からブライアンを守るだけで精一杯でした」